Stupid thought 13th February

外国に留学したかったのは自己顕示欲が強いからなんだと分かる。

カナダに来るとみんな人種が違うのに、そこで一生懸命生きていて、他人と自分が違うってことがわからない。移民の国だからか差別意識がとても低い。カナダにいることはカナダ人ににとって”普通”なことなのだ。いろんな国の人と一緒に住むことは当たり前のことなのだ。

 

それで、最初から一人でビクビクして電車とかにのってたんだけど、誰も私のことを外国人として見ないから、かなり違和感だった。外国に来たのに、なんで?ここは外国?みたいな。とても不思議な感覚だった。とても恥ずかしいことだけど、海外に訪れる度、自分が外国人だということにどこかしら優越感を覚えていたようだった、すごく変なことだし、とてもおかしなことだけど。そんな自分をどこかスゴイって思いたかった。ものすごい驕りだ。

 

私は何かをやりたいからとか純粋な目的意識よりも、他人にこう思われたいっていう自己顕示欲の方がとても強かった。(今も強い多分)他人にスゴイって思われたい。外国で辛い思いして頑張った自分をスゴイって思われたい。褒められたい。

でも、実際スゴイですねって言われても全く嬉しくなくて、いやいや、そんなつもりじゃないんだ、そう思われたいんじゃないんだ、とも思う。こんなに私は薄っぺらいものを求めていたのかと心のどこかで分かっているかのように。

両極端な気持ちが存在する。

 

他人というより、私が好きな色んな人から、スゴイって思われたいのかも。よく頑張ったねって言われたいのかも。だから空虚感を感じるのか。一心不乱に本当に純粋な”好き”で研究をしている人からしたらカス並に不純な理由だけど。

だから自分のやってることに自信が持てないのか。どこか後ろめたい気持ちがあるから。自分がすごいと思われたいがために建築を利用している感じ。でも、それがないと個性がなくなってしまうんじゃないかという恐れも抱いていたりして。実際ものすごく、自分が勉強した分野のことを話さなければいけない時には助かっている。それがないとコミュニュケーションができない。自分がどういう人間か表現できない。自分がやって来たことを言わないといけない。でもそうやってコミュニュケーションとっていかなきゃいけないのもとっても苦しいと思ってしまう。本当はみんな過去のことなんか関係なくて、今自分と向き合って喋っていることに価値があって、その共有の時間がとても大事なんじゃないだろうか。難しいね。本当は人間多面体なのにね。例えば初対面の時に、過去のことだけで相手のことをこういう人なのか、と理解しようとしたりとか。そのまま過去の体験に準じたままきっとこうだろう、ていう態度で接してこられるのとか(特に家族)。その作ってしまった壁を壊すのが難しい。今まで発見してきた自分を共有できることも大事だけど、何か新たな感覚や体験を一緒に共有することの方がもっと大事な気がする。だから全く知らない人と出会ったり、喋ったりすることはとても貴重だし、刺激的。(偉そうなこと言いつつ、そんな態度を実際には取れない私)

 

建築のことが好きなのは確かなんだけど、ずっと触れていないとその感覚が風化していってしまうのが身に沁みる。

たやすく忘れられる。自分が学生時代に掴みかけていた好きの感覚が幻だったんじゃないかと思う。本当は心の底では嫌いだったんじゃないかと思う。

それぐらい今、自分が本当に好きでやりたいことが分からなくなってきている。困った。

 

それでも、いろんな国に行って、その国の人々と実際触れ合ったり、話したり、理解し合うことはとても重要だと思う。

今までの自分の稚拙で姑息な考えには本当に気をつけなければいけない。本当に自分はプライドが高い。

Commuter 2nd February

朝混みこみの電車にいつも乗りたくなくて、見送ってしまう。

みんながのっている電車に乗りたくない。苦しい思いをしてまで電車に乗る必要がないと思う。

息ができないくらいにまで、電車に乗って時間を過ごすことの意味が全然わからない。

 

そんなために生まれてきたのではないと思うのだ。

毎日苦しい電車に行って、箱のような建物に入って、デスクでパソコンと向き合って、お金を作るのが私の人生じゃないと思う。中央線に毎日乗っている人たちの人生は私にとっていつも"???"なのだ。(そう言える私はとても幸せな人間だと思う)

 

 

思えばいつもそんな選択をしてきた。

みんなが行く高校には行きたくない。みんなが行く大学には行きたくない。みんなが働いている時に働いていたくない。

みんながやっていることを私はしたくないし、みんなが思うように私はやりたくない。

 

 

なぜ同じ生き方を選ぼうとするのかが分からない。

なぜみんな”出勤”するのか分からない。

 

私は社会不適合者なのかもしれない。

 

あなたが良いというものを私は良いと思わない。私が良いと思うものは他の人の選択よりも優れているとかではなくて、

それは比較できないものなのに、基準なんてないんだから、みんな自分の定規を人に押し付けてくる。私もたまに押し付けてしまう。

でもやっぱり本来はその物差しはとっても貴重なもので、比べられるようなものじゃなくて、一人で大事に育てていかなければいけないものなんじゃないだろうか。

早くその一人の物差しがそれぞれ大事にされる時代が来ると良い。みんながみんなの物差しを尊重できる人間になれれば良い。

それはあなたに認められるから良いとか、悪いとかじゃなくて、その人の物差しを理解して、そっとしてあげられることなんだと思う。いくら悪いと感じてしまっても良いところを見つけてあげられることなんだと思う。自分とその人の違いを面白がって楽しめることなんだと思う。難しいけど。(きっとこれが健全なコミュニュケーションと人間関係の距離の保ち方なんだろうな)

 

ブーイングとか、拍手とか、本来は一人の意見を表現するためだけの手法なのに、それが大衆の意見になっていて、それが社会の意見になってしまう。大衆がこういうから、正しいとか、良くない、とか、こんなに沢山の人があなたのこと悪いと思っています、って。それって物凄く実は参考にならない意見なんじゃないんだろうか。いくら多くの人がそういうからといって、良い悪いって言えた話じゃない。量ではなく意見の質な気がする。そして中身な気がする。

本来一人一人違う人間なのに、社会でまとめてしまうのがおかしい。みんなまとめようとするからいけないんだ。理解することと、まとめることは違う。

まとめることは、物事をシンプルにしてしまうことだ。確かに、まとめることは理解を助けるけれど、そのぶん抜け落ちてしまった文脈は悲しくも忘れられてしまう。人間は複雑なことは理解できないし、面倒臭がりやだからだ。

その今まで抜け落ちた細かい文脈が、実は現在の沢山の問題の原因だったりして、私たちはまたそれらを拾い上げていかなければならない。

きっとその繰り返しなのだろう。

 

 

ものすごくへそ曲がりで天邪鬼だけれど、”みんな”と同じ選択をすることは私にとってものすごく不快で、とにかく我慢できない。

人生の中で何度も他人の物差しで私を図られてきて、(中学生の頃なんかがピークだね)心の中でものすごく違和感を抱えて生きてきて、やっと今、自分は他人(家族でさえ)に図られる必要なんてないし、他人が私を図る権利なんてないんだと思う。

同時に、私も、他人を図る権利なんてない。意見して押し付ける権利なんてない。当たり前のことだけれど、当たり前なことのはずなのに、それを今まで実感できたことなんてほとんどなかった。

 

 

こんな主張も私の物差し。めちゃくちゃ自分の生き方を正当化してるけど、驚くほどの開き直りだけど、それでも良いって心の中で確信できるような自分でありたい。(何かしらの謙虚さを残しつつ)

 

承認欲求満たしたくなっちゃうけど、難しいけど、でもみんながみんな、他人のこととやかく言わない社会になれば良いと思う。

 

 

8th April in Fukushima

とても美しい村なのに、とても良い人なのにそれが上手く伝わらないのがとても残念に思い、悲しい。村の人々がとても勘が鋭く、話が達者で驚く。いろんな人の話がとても貴重に聞こえる。なんだかとても近いところにいるのだけれど、それが上手くいかない感じだする。いろんな方の話がとても面白く、刺激になって有難い。とてもワクワクしている。

6th April

インドから帰って来て、思うところがいっぱいあり、どんどんと思考が流れて行く。インドに行く前後で確実に違うことは、インドを好きになったことだ。(大抵国を訪れるとその国を好きになる。) 好きになることって、嫌だって思いそうなことに目を瞑れることなのだろうと思う。周囲にインドの嫌だったことや汚さをアピールしてはいるけれどそれは日本との違いが面白いからなだけであって、好きか嫌いかとはまた別問題だ。嫌いを超えるくらい好きなところがあるから人はそこに住むんだろうな(やむを得ない理由ももちろんあるだろう)

 

日本は制度や法が生きている人間より大切にされている国な気がする。国民に対する愛が感じられない。家族が日本に平然と住んでいることにも違和感を感じる。本当にここで生きて生きたいのか?と思う。

 

インドに戻って、自分で行って、見て感じて経験することの重要性をとても感じた。世の中経験なしの物語がどれだけあるんだろうか?自分がそれで世界が広げられるとまで言わないけれど、偏見の量は経験の有無に左右されるんだろうなと思う。

5th April

インドに行く前よりも、確実にインドを好きになった自分がいる。香港のキャセイのクルーに「どこ行っていたの?」と聞かれて、はなちゃんが「インド!」って言ったら「本当? それは驚いた、インドって危険って言われてるからね」だって。

 

日本に帰ってからしばらくカルチャーショックが続くんだろうな。それが少し楽しみでもある。

4th April

旅がとうとう終わろうとしている。欠点すら可愛く見えてしまうのが本当の人好きなんだろうな。 それとも一長一短なだけか。この度を通して、まだ世界には良いところがたくさんあると感じることができた。

 

魔法にかかっていたみたいにどんどんと現実に引き戻されて行く感じがする。せっかく力が抜けたのに、日本語を喋るたびに、日本に戻っているんだなと思う。今までの世界がある意味夢の国だったようだ。日本に帰ろうとするとインドの良さがわかる。発展しきってない国にはまだプライドがない。人間にプライドがないってことがあのインドの独特の空気の緩さを醸し出していたのかもしれない。センチメンタルなことしか思い浮かばない。バカなことばかり考えていたなぁと思う。でもこの旅が終わった後、コーディネーターに感化されてしまうのも違う気がする。

 

飛行機で眠れなかったのが応えた。インドにいないという安心感はあるけれど、それはそれでまたつまらない。道端のチャイ屋や、次々に声をかけてくるトト乗りはとてもインドの雰囲気を作っていた。だからこそ寡黙で静かにルーティーンの仕事をしているようなおじさんは信用できた気がする。インドにあって、日本にないものは人々の毎日を生きる必死さと、そこから生まれてくる活気だった。日本はもう発展しきっている。ヨーロッパ圏やアメリカもそうだ。いろんな国の経済が行き詰まっている中で、どうやって人々の活気を生み出せるだろうか。人間はもう少し、発展すべきという焦燥感から距離を置いて、生活しなければならないのではないか。自立自存の精神は大切にしなければいけないと思う。もう無くしかけているその精神を、日本はどうやって取り戻せるだろうか。インド人もその精神は持っているとは言い難いけれど、やはり独自の文化を大切にすることで生まれるものな気がする。

3th April

私とはなちゃんの活動タイムがなかなか違う。

 

バラナシは人種のるつぼと言うけれど、それは本当でこの場所にいるとみんなと仲良くなれる感じというか、インド人からの外国人扱いはするけれど、外人の旅行者とまた同じというか色々と混ざり合っている感じはする。ガンジス川はただのでっかい川だった。神聖というよりきたねっという感じしかしない。この川を見ると四万十川に行きたくなる(行ったことないけど) 

 

インド人の物や人に対する扱いが平等なことにも気づいた。川も使うし、木も使う。人も使うし物も使う。全て同じように遠慮なく。対人(人に対する扱い)って自分に対する扱いと同じなのかもしれない。自分や人に厳しい人ほど、心のなかで自分を追い詰めている人も多いのではないだろうか。(私は全然違う)友人を見ていてそう感じる。人や相手にイライラしたりするのは自分には休息が必要だっていうアピール。雑なぶんだけ自分にも雑になる。人にも雑になる。

 

異常に親子関係が悪い人にグッときてしまうのはなぜだろう。インドに来てきっと何か変わったことは沢山あるのだと受けど、それが何かは今はわからない。人々に対する理解をどこまで深くできるのだろうか。この人もこの人なりの悩みがあるのだ、と思うと余計コミュニュケーションに躊躇してしまう。

 

この日記をIiba;cafeにて書いている。周辺にはチャイ屋が所狭しと並ぶ。今日は朝5時に起きて川に朝日を見に行くつもりだったけど、お寝坊をして5:45に起きた(はなちゃんに起こされた)今の所日本にいる時よりリラックスできているみたいだ。骨の髄まで溶けている気がする。日本に帰って余計な力が入らないといい。日本にいると自分の家に近づくにつれて力が入ってしまう気がする。日常のほとんどがどうでも良いことばかりなのに。インドにいると、あれもこれもどうでもいいってなる。日本語も言語も喋りたくない時がある。このカフェのスタッフはみんなとても良い顔つきをしている。誇りを持って働いている顔をしていて、とても気持ちがいい。すごいことだ。