Give and give and give...? 20th July
「コネクション」「人脈」「ギブアンドテイク」について
今までの違和感の一つだった人脈の捉え方
建築学生だった時から、人脈を作らなきゃ、という強迫観念のもと、動いていた節もあった。
将来のために、この人とコネを作っとかなきゃ、この人と仲良くなっとかなきゃ、と心の底で考えていて行動してた。
そしてそんな思惑が渦巻いた中で長く連絡を取り合っている人なんていない。相手の思惑を感じると直感でスッと引いていく自分がいたし、相手もそうしていると思う。
ここ数年、それは疲れる考え方だな、と感じはじめた。
先輩から送られてくるメッセージは大抵ボランティア的手伝いが必要な時で、でもそんなのやるために連絡先交換したんじゃないって思ってしまう。
だったら、なんのために?
利用し、利用されるため?
あなたを利用したい、という下心のある要求は時としてプレッシャーになる。
私はこれだけやってあげたから、あなたからこれをもらうのは当然でしょ、という傲慢さが生まれてしまう。
その中で生きていくのはやっぱり疲れる。
以下、(ゆっくり、急げ-カフェからはじめる人を手段かしない経済- 影山智明著 2015年第一刷発行 大和書房 p,106-107)より抜粋
ついつい、「利用価値」で人間関係を判断してしまう。そしてその判断基準はやがて友人関係にまで及ぶ。「こいつとは付き合っておこう」。いずれ仕事で力になってもらえそうだから。いつか役立ちそうだから。(中略)こうして「利用し」「利用される」関係が世の中に広がっていく。成果主義の人事考課がこの傾向に一層の拍車をかける。
「人脈」という言葉はまさにその象徴だ。人間関係を手段と捉えた言葉。ぼくが世界で一番嫌いな言葉でもある。
相手に利用価値を求めるということは、自分も利用価値を求められるということ。そうして一人ひとりが自らの「利用価値」を高めるべく常に有形無形のプレッシャーを受け続けるということは、そこにもちろん正の効用もあるにしても、常に不安と背中合わせということでもある。
今までぼやけて言葉で表現できていないことが書いてあり、そうそう、そういうことだよね、と腑に落ちる。
人生の中で表現しきれない言葉や感情を見つけ、それを昇華することができるから、読書には本当に助けられている。
例えばお手伝いをしたとある建築家の方とお話した時に、友人伝いで、「あの子には相談乗ってあげたから、あれ以上何もあげないわ」と言っていたと聞いて本当に衝撃を受けた。私としては自分の情報を開示しただけだった。相談をしたつもりもない。
それがいつの間にか相談と受け取られていた。その会話は自分の労力と時間の対価になってしまった。
そういう大人だっている。
人間を利用価値でしか捉えられない大人が、この世にはたくさんいるんだ、と悲しくなったというか、むしろ憎くなったというか。そんな中で生きていかなきゃいけないんだ、と思った。
いやらしい。
これからどれだけ私は利用してやろう、と思われるんだろうか。
これからは、そんないやらしい人を見極めていかなければならないのかってハッとした瞬間だった。
これを踏まえて私はどんな人間でいたいのか。どの方向からハッピーの音がするのか。
人間関係を、「利用価値」ではなく、「経験」や「楽しさ」、「心の豊かさ」で捉える。
この人と一緒にいると、
心が安らぐ、とか、
楽しい、とか、
嬉しい、とか
元気になる、とか
笑える、とか
面白い、とか
学びになる、とか
シンプルに一緒にいたい、でもいい。
沢山の人と、そんなハッピーな感情を持って付き合いたい。
私といる時も相手にそんな感情になってもらえてるといいなって思いながら。(これもある意味価値や期待なのだろうか)
相手に期待を持たずにそんな風に生きていきたいと思っている。(難しいけど、心得のような感じ)
本当はみんなどこかで価値とか役にたつとか見た目とか生活レベルとか年齢とか性別とか、そういうの全部取っ払ったまっさらな自分を眺めてもらいたいと思っているんじゃないか、と思うので、そういう相手にも自分にもゼロの状態でコミュニュケーションとっていけるのが理想だなと思う。
…と、偉そうなことを言ってみるけど、実際には自らそういう価値判断で動いてしまっている時もある。
利用関係を求める人たちの中だと、私のような人間は搾取されるばかりになってしまう気もする。
警戒してしまう。相手が人間関係に何を求めているのかを見極めていくのも難しい。
なるだけ、利用されずに、同じハッピーの音がする人を探して、そっちの方に歩いていって、そういう人達と付き合っていけるといいなぁ。