感覚的人間の限界  9th April 2021

 The limit of human sensitivity

 

コロナが始まってから、自分に起きる心理的な反応に辟易している自分がいて、それにずっと苦しんでいたのだけれども、それが自分が感覚優位で生きているからだ、と分かった。

 

美しいものが見たい、美味しいものが食べたい、心地よく暮らしていきたい、自分の見たい綺麗なものだけ見て生きていきたい。視覚、触覚、聴覚、味覚、知覚の五感に頼りすぎているからなのかもしれないと思った。

五感に溺れながら生きていると、自分が直面する不快に関してどう接していいのか分からなくなっていくようだった。

日本では、ただ排除してどこまでも逃げて生きれば今までは楽に過ごせてこれたのだった。

 

 

自分が majority から minority に変わって、感じたことにいつまでも重きを置きすぎると、精神が病む。

ここから以下は、日本に帰ってきてすぐの文章なのだけれど、

 

 

レイシズムについてよく考えた一年だった。 What is the race?

 

自分がmajority から minority になったことで、色んな事に反応し、感じていく(良い意味でも悪い意味でも)1年だった。2020年の、スペインからのスタディトリップから帰ってくる飛行機での隣席の乗客の過剰反応からはじまった。

それから何か外の街中に出て友人と会うイベントがあると、オーバーリアクトなのかもしれないが自分の心の中でモヤっとする出来事があった。6月の友人の誕生日パーティーでは大分お酒が入った酔っ払いの30代くらいでもうすぐ妻が出産するノルウェー人に「君は中国人か?中国人でなければこの部屋に入っていい。僕は中国人が嫌いだ」と言われた。その妊娠している妻には、コロナ前は彼女とクラブで踊ったこともあるのに、私がいつノルウェーに来て、どれくらいここにいるのか聞いてきた(彼女には他意はなかったのかもしれない)。でもそれがいかにもUncomfortableな感じだった。

 

そんな日常の些細な質問ですら、普通の質問に聞こえなくなった。

もはや、自分が自分を差別しているのか分からなくなった。

何十人もの人が飲んで騒いている部屋で、私1人だけ西洋の規範から逸脱した混沌の中に投げられたようだった。

 

私と仲の良い友人以外は私のことを「アジア人」でしか見ていない。コロナ前では「ただのノルウェー に来た珍しいアジア人」から「ノルウェーにウィルスを持ち込んでいるアジア人」にレッテルが張り替えられた感じがした。

カフェでカフェラテをテイクアウトしただけで嫌そうな顔をされるようになった。誕生日の日には公園で歩いていて、座る場所を探しているだけで故意に咳き込んだマネをしてくるグループがいた。

 

こんなこと書いて哀れんでほしいわけじゃない。ただそういう事実があっただけだ。

 

友人は、「あなたの事を、私たちは知っているわ」といった。でも、出かけるたびにそういう出来事に毎度出会って、まだそれが沢山続くと思うと気が滅入った。この世でどれだけ人間に差別されてきた人間がいるんだろうか。それで私はどれだけ無意識に差別してしまったのだろう。(思い当たる節は沢山ある)

そんな馬鹿馬鹿しいこと、本当に終われ。

 

自分の過剰な繊細さばかりが目について、どこにいつも自分を据えていたのか分からなくなってしまった。自己中心的すぎていたのかもしれない。過剰に自分のことしか考えられなくなった。

どこか他の人を助けるとか、エネルギーを注げられる的がなかった。

私はどうしたらよかったんだ。》

 

 

 

 

この一年私はここから一歩も動けていなかった。自分の反応や自分の扱い方が分からなくなった。面と向かって、何か言われた時、とっさに何と言えば正解だったのかずっと分からなかった。自分がまた西欧の中で堂々と生きていける自信が今もまだない。それは今まで、自分が不快だと感じる事に関して逃げて逃げて目を瞑ってきたツケなのかもしれないし、不快な事象への免疫がミジンコレベルだっただけなのだろう。きっとこれから同じようなことが沢山あるんだ、そう思ったら自分がどう生きていっていいのか分からず外に出て人と喋ることが怖くなった。

 

結局、どの人間も、自分の目の前は快であって欲しくて、快不快を露わにするカフェ店員だった人間は、感覚優先で生きているだけなのだ。自分の視覚からの情報に頼って生きているだけの人間なのだ。でも、そうして生きていると物凄く辛い。自分が快不快に右往左往させられているということが苦しみだ。自分が快に居たいと思うと、必ずその反対があり、自分の主義に反してしまうからだ。そんな単純な感覚-目から入ってくる情報・見た目-を頼りに生きているのが人間なのだから、いじめがあるのだって当たり前だ。短絡的な思考判断の連続で生きているのが人間で、それが極まっているのがレイシズムで、私たちの日常生活なのだ。

 

そんな人間の表面的で無知で浅慮な対応に、一つ一つ敏感に反応してしまった、私もまた私で無知なのだった。

私はあの時、そういう質問や態度をしてくる人を、許すという選択肢があった。そしてこの先もきっとある。

それは自分はこの人と違うからという理由からではなく、私もこの人も同じだからという理由でだ。

I could have said, “I understand how you feel, but I respect that who and how they are.” Instead of saying ”Me too”(which is the worst answer). 

 

中国人かと問われただけで、腹を立てるのもまた違う。外見や髪の色、肌や目の色、性別や育った文化の違いなんて関係なく、私とあなたが生物として同等に扱われないことが差別だ。そんな基本的なことが私も含めて世界中の人間もできない中で住んでいるのだ。不快があって当然だった。西欧に快を求めて、不快を経験して帰ってくるのはなんとも皮肉だ。どこにだってそれなりの地獄がある。それにどう対応するのかは全部自分次第なのだった。だからといってレイシズムに屈するのでも反発するのでもない。自分がより良い選択と行動を選びとっていく道しか今はできないし、その積み重ねでしか目の前に起こることを少しずつ変えていけないのかもしれない。

 

 

初対面で、髪の色や人種や、肌の色を関係なく接してきてくれる人は本当に少なかった(もちろん私はアジアンだから、それは当たり前のことでもあるのだ)。偉そうなことを言っているようだけれど、人を、個性としてみるということは難しいことで、それも稀有な能力なのだと思った。だからこそ、自分は人間の本質を尊重しながら接せられる人間でありたいと心底思うけれど、自分がどれだけそこに近づいているのかは分からない。

「Where are you come from ?」と聞いてくる純粋な目の奥深くを、しっかり見据えられる人でありたい。

 

 一つ鳥瞰で生きていけなければならない。自分の感覚に重きを置きすぎてもいけない。冷静に一歩引いたところから反応を眺めるような心持ちで、慌てないで過ごせたらいいなと思う。