鬱憤 9th November 2022

小さい頃から姉は私にとって憧れの存在だった。

姉が何をしてもカッコ良く見えたものだった。いつもカッコ良い姉として映った。いつまでも憧れの存在でいて欲しいものだった。一緒に遊ぶときは楽しくて仕方がなく、バドミントンしたり、一緒にプレイステーションやったり、地元のゲーセンや商業ビルの屋上でプリクラを撮ったり、買い物したり、カラオケをしたり何をするにしても姉と一緒がよかったし、旅行も姉がいないとつまらなかった。タイに家族旅行に行って、姉がエビにあたってしまった時は次の日から遊び相手がいなくなって1人で誰もいないホテルのプールに入って途方に暮れたものだった。母はいたが、姉のことで気が気ではなく、父は姉の病院に行ったきりだった。

 

車の中で聞いたことのない音楽を教えてくれるのはいつも姉で、

影響されやすい姉はおおよそ学校の友達からの流行りをそのまま間に受けていたのだろうけど、その影響を直接受けていたのも私だった。小学生の時は一緒にSPEEDのサビパートを振り付けと一緒に練習したり、ブラックビスケッツの小さいCDを一緒に聞いてお風呂で歌ったりした。クサいドラマがあればキャラクターをボロクソに言い合ってツッコみあって爆笑した。

 

姉は中高で陸上部に入った。運動に一生懸命打ち込んでいる姿がカッコよくて、私もみよう見真似で高校で陸上部に入った。今となっては姉の中高生活の逃げ場が陸上部しかなかったからあれだけ打ち込んでいたのだと分かる。お嬢様学校に無理やり入らされて日常の鬱憤のやり場がなかったんだと思う。

 

しばらくして、自分には追い込むような運動は向いていないことが良くわかった。初めの体力作りのジョグ20分で私はもうヘロヘロになった。先輩や人はみんな優しくてとても魅力的だった、でもどこかそんな魅力的な人間とジョグだけでヘロヘロになる自分自身を比較して精神的に追い込んでいた所もあったかもしれなかった。とにかく激しい運動は向いていなかった。そんな日々が多分1、2ヶ月続いて、何回か大会も見て、ハムストリングを痛める部長も見た。

 

なんの夢を見ていたのかは覚えていない。でもそんな日が続くある夜底知れない恐怖感と焦りと共に、自分の叫び声で目が覚めた。自分でも驚いていて、しばらく落ち着く時間を作ってからまた眠ったのだった。夜中の叫び声を聞いた家族は私を心配した。私も自分が心配になった。ああ、もうこれが限界なんだな、限界というより自分は向いていなかったな、という潔い諦めがついた。誰もが納得できそうなキツい部活をやめる言い訳が見つかった気がしたので心のどこかでホッとしている自分がいた。部活で体力を奪われ、帰ってきてから夕食を食べようとしても喉を通らず、食も細くなっていた。すぐに私は陸上部をやめた。

 

それから方向性を変えて、美術予備校に通うのは早かったと思う。自分でもどこでどのタイミングで急に行動したのかあんまりきっかけは覚えていないけど、いつの間にか

絵を描きながら下手くそ具合に悔しんで、それでも自分が一枚一枚描くごとに技術を習得していることが目に見えて嬉しく、夢中に楽しんで予備校に通っている自分がいた。

 

 

いま、多分私はまた陸上部に入っている時期だと思う。体をあの時まで追い込んだり、(数日前に筋トレしただけ)ものすごくストレスフルな日常を送っているわけではないのに。

ちゃんと卒業して、でもUnemployedで、人と会うたびに引け目を感じる。なんて世の中だ。資本主義め、最低だ。Youtubeで資本主義の終焉について語っている哲学者の動画を

最近視聴した。資本主義ではポジション取りが当たり前になってしまっている。学歴、職のポジション、これをとれば勝ち。戦いに負けていった他の人の事は気にしない。自分はそのポジションにずんぐりと居続けた勝ち組でいる。椅子取りゲームのような、競争社会。ノルウェーはその典型的な例だと思ってしまった。周りの友人がみんなそうだからだ。

北欧に来れば、どこか社会保障がしっかりしているから、もっと優しい世界がある人間が住んでいるのかと期待してしまっていた自分がいたことに反省した。安定した収入、欲しいものが手に入れられる余裕のある金銭。有限と分かっているくせに、まるで資源が無限かのように振る舞う生産ラインや消費者。地球の資源のお陰で今の豊かさも国の財源もあるのに、まるで自分が全てを生み出しているかのように錯覚して独占して分け与えない人間。それは全て浅はかだけれども安定のために必死で努力して他人を蹴落としてまで手に入れたポジションと生活の基盤。自分が良ければ全て良し。それも精一杯生きている証拠、自分が努力したから、今がある。だから努力していない人間は助けられない?富を離せない?他の人間なんてどうでもいい?

 

最近はものすごく差が目につくようになった。

貧富の差。バス停前で新品のグッチの鞄を持つ、どぎつい香水をつけた20代の少女。地下鉄の入口で小銭を乞う片手で杖をついている小汚いホームレス。寒くなってきたのに外の階段の横で祈るような姿勢で一日中顔も上げず突っ伏して紙コップを置いている老人。「I am sick」と叫びのようにペンで書かれた折れ曲がっている段ボール。それを日常の風景と認識して通り過ぎる小綺麗なスーツを来た白人。こちらではネット上での通貨のやりとりがコロナ後の主流なのに、どこに現金をあげる人々がいるのか、と疑問に思う。

何かがおかしいはずなのに、それが日常だと通り過ぎる人たち。解せない。腹が立つ。怖くて何もできない自分にも腹が立つ。

 

なんだかあの時とおんなじような違和感を感じていることに気がついた。何かが違うのに何かを無理やりやろうとしている感じ。壁が四方からジリジリ迫ってくるような抑圧感を感じる。ずっと同じところにいて、気が散逸できない。悪夢もたまにみるようになってきてしまった。夢で、何かに追われていて、捕まりそうになって夢の中でのけぞって叫んで、恐怖感とともに実際に叫ぶ一歩手前のところで夜中に目が覚めた。自意識で、あの時ほどではない、まだ私は我慢できる、我慢できるから実際に叫ぶことはないのだ、と自分自身が分かっているようだった。しんどさを受け止めながら生きている。やっぱりしんどい。

 

友人のヤスヨさんが潜在意識に自分はどこの国に行きたいのか、占い師に聞いたら雪が降らない南のところって言ってた話で爆笑したけど、私は自分の潜在意識に聞いたら、どうなるんだろうってしばらく考えてもパッとした答えが思い浮かばなかった。

多分どこの国にも理想の場所なんてないのは分かってきたから、天国って言いそう。