鬱憤 9th November 2022
小さい頃から姉は私にとって憧れの存在だった。
姉が何をしてもカッコ良く見えたものだった。いつもカッコ良い姉として映った。いつまでも憧れの存在でいて欲しいものだった。一緒に遊ぶときは楽しくて仕方がなく、バドミントンしたり、一緒にプレイステーションやったり、地元のゲーセンや商業ビルの屋上でプリクラを撮ったり、買い物したり、カラオケをしたり何をするにしても姉と一緒がよかったし、旅行も姉がいないとつまらなかった。タイに家族旅行に行って、姉がエビにあたってしまった時は次の日から遊び相手がいなくなって1人で誰もいないホテルのプールに入って途方に暮れたものだった。母はいたが、姉のことで気が気ではなく、父は姉の病院に行ったきりだった。
車の中で聞いたことのない音楽を教えてくれるのはいつも姉で、
影響されやすい姉はおおよそ学校の友達からの流行りをそのまま間に受けていたのだろうけど、その影響を直接受けていたのも私だった。小学生の時は一緒にSPEEDのサビパートを振り付けと一緒に練習したり、ブラックビスケッツの小さいCDを一緒に聞いてお風呂で歌ったりした。クサいドラマがあればキャラクターをボロクソに言い合ってツッコみあって爆笑した。
姉は中高で陸上部に入った。運動に一生懸命打ち込んでいる姿がカッコよくて、私もみよう見真似で高校で陸上部に入った。今となっては姉の中高生活の逃げ場が陸上部しかなかったからあれだけ打ち込んでいたのだと分かる。お嬢様学校に無理やり入らされて日常の鬱憤のやり場がなかったんだと思う。
しばらくして、自分には追い込むような運動は向いていないことが良くわかった。初めの体力作りのジョグ20分で私はもうヘロヘロになった。先輩や人はみんな優しくてとても魅力的だった、でもどこかそんな魅力的な人間とジョグだけでヘロヘロになる自分自身を比較して精神的に追い込んでいた所もあったかもしれなかった。とにかく激しい運動は向いていなかった。そんな日々が多分1、2ヶ月続いて、何回か大会も見て、ハムストリングを痛める部長も見た。
なんの夢を見ていたのかは覚えていない。でもそんな日が続くある夜底知れない恐怖感と焦りと共に、自分の叫び声で目が覚めた。自分でも驚いていて、しばらく落ち着く時間を作ってからまた眠ったのだった。夜中の叫び声を聞いた家族は私を心配した。私も自分が心配になった。ああ、もうこれが限界なんだな、限界というより自分は向いていなかったな、という潔い諦めがついた。誰もが納得できそうなキツい部活をやめる言い訳が見つかった気がしたので心のどこかでホッとしている自分がいた。部活で体力を奪われ、帰ってきてから夕食を食べようとしても喉を通らず、食も細くなっていた。すぐに私は陸上部をやめた。
それから方向性を変えて、美術予備校に通うのは早かったと思う。自分でもどこでどのタイミングで急に行動したのかあんまりきっかけは覚えていないけど、いつの間にか
絵を描きながら下手くそ具合に悔しんで、それでも自分が一枚一枚描くごとに技術を習得していることが目に見えて嬉しく、夢中に楽しんで予備校に通っている自分がいた。
いま、多分私はまた陸上部に入っている時期だと思う。体をあの時まで追い込んだり、(数日前に筋トレしただけ)ものすごくストレスフルな日常を送っているわけではないのに。
ちゃんと卒業して、でもUnemployedで、人と会うたびに引け目を感じる。なんて世の中だ。資本主義め、最低だ。Youtubeで資本主義の終焉について語っている哲学者の動画を
最近視聴した。資本主義ではポジション取りが当たり前になってしまっている。学歴、職のポジション、これをとれば勝ち。戦いに負けていった他の人の事は気にしない。自分はそのポジションにずんぐりと居続けた勝ち組でいる。椅子取りゲームのような、競争社会。ノルウェーはその典型的な例だと思ってしまった。周りの友人がみんなそうだからだ。
北欧に来れば、どこか社会保障がしっかりしているから、もっと優しい世界がある人間が住んでいるのかと期待してしまっていた自分がいたことに反省した。安定した収入、欲しいものが手に入れられる余裕のある金銭。有限と分かっているくせに、まるで資源が無限かのように振る舞う生産ラインや消費者。地球の資源のお陰で今の豊かさも国の財源もあるのに、まるで自分が全てを生み出しているかのように錯覚して独占して分け与えない人間。それは全て浅はかだけれども安定のために必死で努力して他人を蹴落としてまで手に入れたポジションと生活の基盤。自分が良ければ全て良し。それも精一杯生きている証拠、自分が努力したから、今がある。だから努力していない人間は助けられない?富を離せない?他の人間なんてどうでもいい?
最近はものすごく差が目につくようになった。
貧富の差。バス停前で新品のグッチの鞄を持つ、どぎつい香水をつけた20代の少女。地下鉄の入口で小銭を乞う片手で杖をついている小汚いホームレス。寒くなってきたのに外の階段の横で祈るような姿勢で一日中顔も上げず突っ伏して紙コップを置いている老人。「I am sick」と叫びのようにペンで書かれた折れ曲がっている段ボール。それを日常の風景と認識して通り過ぎる小綺麗なスーツを来た白人。こちらではネット上での通貨のやりとりがコロナ後の主流なのに、どこに現金をあげる人々がいるのか、と疑問に思う。
何かがおかしいはずなのに、それが日常だと通り過ぎる人たち。解せない。腹が立つ。怖くて何もできない自分にも腹が立つ。
なんだかあの時とおんなじような違和感を感じていることに気がついた。何かが違うのに何かを無理やりやろうとしている感じ。壁が四方からジリジリ迫ってくるような抑圧感を感じる。ずっと同じところにいて、気が散逸できない。悪夢もたまにみるようになってきてしまった。夢で、何かに追われていて、捕まりそうになって夢の中でのけぞって叫んで、恐怖感とともに実際に叫ぶ一歩手前のところで夜中に目が覚めた。自意識で、あの時ほどではない、まだ私は我慢できる、我慢できるから実際に叫ぶことはないのだ、と自分自身が分かっているようだった。しんどさを受け止めながら生きている。やっぱりしんどい。
友人のヤスヨさんが潜在意識に自分はどこの国に行きたいのか、占い師に聞いたら雪が降らない南のところって言ってた話で爆笑したけど、私は自分の潜在意識に聞いたら、どうなるんだろうってしばらく考えてもパッとした答えが思い浮かばなかった。
多分どこの国にも理想の場所なんてないのは分かってきたから、天国って言いそう。
感覚的人間の限界 9th April 2021
The limit of human sensitivity
コロナが始まってから、自分に起きる心理的な反応に辟易している自分がいて、それにずっと苦しんでいたのだけれども、それが自分が感覚優位で生きているからだ、と分かった。
美しいものが見たい、美味しいものが食べたい、心地よく暮らしていきたい、自分の見たい綺麗なものだけ見て生きていきたい。視覚、触覚、聴覚、味覚、知覚の五感に頼りすぎているからなのかもしれないと思った。
五感に溺れながら生きていると、自分が直面する不快に関してどう接していいのか分からなくなっていくようだった。
日本では、ただ排除してどこまでも逃げて生きれば今までは楽に過ごせてこれたのだった。
自分が majority から minority に変わって、感じたことにいつまでも重きを置きすぎると、精神が病む。
ここから以下は、日本に帰ってきてすぐの文章なのだけれど、
《レイシズムについてよく考えた一年だった。 What is the race?
自分がmajority から minority になったことで、色んな事に反応し、感じていく(良い意味でも悪い意味でも)1年だった。2020年の、スペインからのスタディトリップから帰ってくる飛行機での隣席の乗客の過剰反応からはじまった。
それから何か外の街中に出て友人と会うイベントがあると、オーバーリアクトなのかもしれないが自分の心の中でモヤっとする出来事があった。6月の友人の誕生日パーティーでは大分お酒が入った酔っ払いの30代くらいでもうすぐ妻が出産するノルウェー人に「君は中国人か?中国人でなければこの部屋に入っていい。僕は中国人が嫌いだ」と言われた。その妊娠している妻には、コロナ前は彼女とクラブで踊ったこともあるのに、私がいつノルウェーに来て、どれくらいここにいるのか聞いてきた(彼女には他意はなかったのかもしれない)。でもそれがいかにもUncomfortableな感じだった。
そんな日常の些細な質問ですら、普通の質問に聞こえなくなった。
もはや、自分が自分を差別しているのか分からなくなった。
何十人もの人が飲んで騒いている部屋で、私1人だけ西洋の規範から逸脱した混沌の中に投げられたようだった。
私と仲の良い友人以外は私のことを「アジア人」でしか見ていない。コロナ前では「ただのノルウェー に来た珍しいアジア人」から「ノルウェーにウィルスを持ち込んでいるアジア人」にレッテルが張り替えられた感じがした。
カフェでカフェラテをテイクアウトしただけで嫌そうな顔をされるようになった。誕生日の日には公園で歩いていて、座る場所を探しているだけで故意に咳き込んだマネをしてくるグループがいた。
こんなこと書いて哀れんでほしいわけじゃない。ただそういう事実があっただけだ。
友人は、「あなたの事を、私たちは知っているわ」といった。でも、出かけるたびにそういう出来事に毎度出会って、まだそれが沢山続くと思うと気が滅入った。この世でどれだけ人間に差別されてきた人間がいるんだろうか。それで私はどれだけ無意識に差別してしまったのだろう。(思い当たる節は沢山ある)
そんな馬鹿馬鹿しいこと、本当に終われ。
自分の過剰な繊細さばかりが目について、どこにいつも自分を据えていたのか分からなくなってしまった。自己中心的すぎていたのかもしれない。過剰に自分のことしか考えられなくなった。
どこか他の人を助けるとか、エネルギーを注げられる的がなかった。
私はどうしたらよかったんだ。》
この一年私はここから一歩も動けていなかった。自分の反応や自分の扱い方が分からなくなった。面と向かって、何か言われた時、とっさに何と言えば正解だったのかずっと分からなかった。自分がまた西欧の中で堂々と生きていける自信が今もまだない。それは今まで、自分が不快だと感じる事に関して逃げて逃げて目を瞑ってきたツケなのかもしれないし、不快な事象への免疫がミジンコレベルだっただけなのだろう。きっとこれから同じようなことが沢山あるんだ、そう思ったら自分がどう生きていっていいのか分からず外に出て人と喋ることが怖くなった。
結局、どの人間も、自分の目の前は快であって欲しくて、快不快を露わにするカフェ店員だった人間は、感覚優先で生きているだけなのだ。自分の視覚からの情報に頼って生きているだけの人間なのだ。でも、そうして生きていると物凄く辛い。自分が快不快に右往左往させられているということが苦しみだ。自分が快に居たいと思うと、必ずその反対があり、自分の主義に反してしまうからだ。そんな単純な感覚-目から入ってくる情報・見た目-を頼りに生きているのが人間なのだから、いじめがあるのだって当たり前だ。短絡的な思考判断の連続で生きているのが人間で、それが極まっているのがレイシズムで、私たちの日常生活なのだ。
そんな人間の表面的で無知で浅慮な対応に、一つ一つ敏感に反応してしまった、私もまた私で無知なのだった。
私はあの時、そういう質問や態度をしてくる人を、許すという選択肢があった。そしてこの先もきっとある。
それは自分はこの人と違うからという理由からではなく、私もこの人も同じだからという理由でだ。
I could have said, “I understand how you feel, but I respect that who and how they are.” Instead of saying ”Me too”(which is the worst answer).
中国人かと問われただけで、腹を立てるのもまた違う。外見や髪の色、肌や目の色、性別や育った文化の違いなんて関係なく、私とあなたが生物として同等に扱われないことが差別だ。そんな基本的なことが私も含めて世界中の人間もできない中で住んでいるのだ。不快があって当然だった。西欧に快を求めて、不快を経験して帰ってくるのはなんとも皮肉だ。どこにだってそれなりの地獄がある。それにどう対応するのかは全部自分次第なのだった。だからといってレイシズムに屈するのでも反発するのでもない。自分がより良い選択と行動を選びとっていく道しか今はできないし、その積み重ねでしか目の前に起こることを少しずつ変えていけないのかもしれない。
初対面で、髪の色や人種や、肌の色を関係なく接してきてくれる人は本当に少なかった(もちろん私はアジアンだから、それは当たり前のことでもあるのだ)。偉そうなことを言っているようだけれど、人を、個性としてみるということは難しいことで、それも稀有な能力なのだと思った。だからこそ、自分は人間の本質を尊重しながら接せられる人間でありたいと心底思うけれど、自分がどれだけそこに近づいているのかは分からない。
「Where are you come from ?」と聞いてくる純粋な目の奥深くを、しっかり見据えられる人でありたい。
一つ鳥瞰で生きていけなければならない。自分の感覚に重きを置きすぎてもいけない。冷静に一歩引いたところから反応を眺めるような心持ちで、慌てないで過ごせたらいいなと思う。
Book Review 29th Jan. 読書感想文
わら一本の革命 福岡正信著
植物と叡智の守り人 (原題: Braiding Sweetgrass) by Robin Wall Kimmerer
この二冊を夜な夜な同時に読み進めていて、やっと最近読了した。
すごく読み切った感がある。この二冊は哲学的、思想的な類似点が沢山あって面白かった。ノルウェーに行く前は福岡さんの本は読もうとしても難しく思えて読めなかったりして、いつか読むぞスペースに置いておいた。それが帰ってからすんすんと読めてしまうから本当に不思議だ。
読み始めていた頃は2人の著者が正反対の方向から植物に接しているような気がした。
福岡氏は東洋的思想、ロビンウォールキマラー氏は西洋的思想といった感じに見えて、2人とも書いてあることが真っ向から対立しているような印象があったから、結構混乱した。
最後には2人とも全く同じ場所に立っていて、その思考を巡らせ、心を動かしているのだと分かった。
イメージとしては一つの小高い山の上に2人の著者が背中合わせで山びこをしている感じだ。
福岡さんの文章からはなんとなく、現代人として都市で生きることを諦めたような、現代社会が本当に嫌になって生き辛くてやっていけないやるせなさが凄く伝わってくる。最後には静かに暮らしたいから、あまり探さないでくださいというような後書きまで載っている。殆、人間が嫌になって緑が友達で癒しの対象のような印象を受ける。
私はそれに深く共感する。ただ、その生活も己一人という孤独に耐え自己を見つめる大変な生活だったような感じもする。言葉として語られているのはその孤独が極まった先に福岡さんが見つけた真理である。
対して、ロビン氏はアメリカインディアン、ポタトワミ族出身、母であり植物の研究者であり女性だ。
インディアン特有の、(とは言っていいものなのか、むしろそれは人間固有の、と言い直した方がいいのではないか。) いわばアニミズム的思想を基にした、自然に対する底抜けの愛と人間が引き起こしている結果に対するやるせない怒りが美しい自然描写と共に対照的に描かれている。
インディアン的部族は歴史的に激しく差別され、下等とみなされ、権力者から疎まれてきた存在であるが、この本を読み終わってみると、寧ろ彼らの方がよっぽど文明的で精神的にとても豊かで、より人間らしく感じる。そして自分がなんて欲に塗れた底無し沼の物質社会に生きているのだろうかと悲しくなる。
福岡さんは人間はどう足掻こうと無であり、人間が何をしても意味がない、という、一切無用論を説いている。
人間は何にでも意味をつけたがる。優劣や二元論的思想で物事が理解できたと自分たちは勘違いしている、と。
確かに、甥っ子を見ていてもそう思う。1歳児はテーブルに座ると、ご飯もおもちゃも同じように机からキャッキャと落とす。赤ん坊にとって、食べ物であろうが物質は全て無価値なのだ。
あれ、この感覚どこかで体験したような、と思い出してみたらインドに行った時に、インド人が人も物も自分も平等に扱っていたことを思い出した。
大人になるにつれて他人と生きていく上で、他人と比べることを覚え、あれが良いもの、悪いもの、綺麗なもの、汚いもの、いい人、悪い人….そうやって勝手な基準を設け、判断して暮らしていく。
福岡さんはそんなことは全て無だ、という。人間が勝手に作った概念を、自身で大切だと思い込んで社会の中で生きているのだ、と。人間は何もしなくて良い、という。生きる上で目標なんていらない、という。
ロビン氏は、持続可能なんて言葉は人間の奢り昂った、人間中心だからできる考えだ、という。
人間が使えるように、資源を持続させる。自然には何のお伺いも立てず、資源だけずっと頂戴します、どんどん開発します、という考え方が何と痴がましいことか、という。
志望動機で、私は持続可能なデザインを学びたい、と書いた。それがこの先に必要な手法なのではないか、と考えたからだ。国連はSDGsという持続可能な開発目標を掲げ、日本や世界各国もそれに賛同している。
ああ、そうだったのか、自分は自分の心に反した真逆のことをしようとしていたのだな、と思う。その文章を読んで、私はなんて馬鹿なことを言っていたのか、と多少なりともショックを受けた。
ロビン氏は既に人間が破壊していった生命や、環境について訴える。その痛々しい沢山の事例から、もう人間は開発しきっている、ということが痛烈に伝わる。これ以上地球を傷つける必要はあるのだろうか、と。
人間が物質と競争社会の苦しみから抜け出すために必要なのは、既にある環境に感謝する心である、と筆者は言う。感謝をすれば満たされる、という。インディアンの部族には儀式で感謝の言葉(というよりすごく長い唄)を述べる習慣があり、そうして地球にお礼を述べる。それが美しい詩的な文章で語られる。
富の再分配がなされれば、格差社会はなくなり、人間同士の軋轢も生じなくなる。そこに至るまで、果たして地球はまだあるのだろうか。
福岡さんは横浜の税関に勤めて在外植物の検査をしていた、研究者だった。そしてロビン氏も大学で植物学を教える研究者だ。東洋と西洋にいるという違いだけで、植物と接していて、感じていることはほぼ同じー自然から学び、感謝し、謙虚に生きることー
ロビン氏は、今まで私たち人間に、糧や資源を与え続けてきている地球(本文ではマザーアース)に、まだ私たちは恩返しができる、という。そうか、その道があった、と思う。こうなったら環境保護活動家に転身でもするか、と浅い考えが脳裏をよぎる。でも、もしかしたら、今の都市的生活を原始的な(良い意味で)ものにちょっとずつ戻していく手伝いをするのも、一つの手段なのかもしれない、とふと思う。自分の専攻が、都市計画ではなく、ランドスケープでよかった、と少し胸も撫で下ろした。
四方八方に飛んでいる思考だけれど、とりあえずここに書き残しておく。
Beautiful sadness days 12th June
日本でよく見る沢山のカラスのように、オスロで毎日見かける鳥は青色が入ったカササギか真っ白なカモメだ。
どちらの種類もけたたましくよく鳴く。
カササギはそこらじゅうにいて、なんだか可愛いらしい鳥だな、と思っていたら、冬場、うっすらと雪のベールのかかった寮のテラスで共食いしている現場を発見して戦慄し、日本でのカラスと同じポジションにいるのではないか、と見識を改めた。
鳥も必死で生きているんだな、と思う。一匹の虫や一羽の鳥でさえ、死ぬ気で生きている。
五木寛之の大河の一滴を読んでいたら、現代や自分の状況をあまりにも赤裸々に表していたので、一人公園の芝生に寝転がりながら声を上げて笑ってしまった。
「救いがたい愚かな自己、欲望と執着を断つことのできぬ自分。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きる今現在の日々。それを、地獄という」
私たちは地獄に生きているらしい。
日本や家族への執着、オスロでの時間と自由と人間関係への執着。1年間休学するか、オスロに留まって勉学を続けるか、ここ1週間程悩んでいたら、日本に帰るための正当な言い訳を血眼で探している自分がいて、自分は海外に住む覚悟なんてなかったのだ、と思い知っている。友人たちのように、現状のあるがままを受け入れて、暮らせばいいのだろう。耐え忍んで生きることが美徳という染み付いた概念が、ならばなぜ日本に帰る必要があると問う。オスロにいられるだけで私は十分幸せなのだ。外に出て、芝生で寝っ転がったり、森に散歩したり(まだしたことない)、海に飛び込んだり、友人と会って喋る現実があって、その現実は、幸せなはずだ。
幸せなはず、
ただ... 楽しいと思っていた人間関係の、例えば飲みや遊びの誘いに、今は、特にコロナが始まってからは心から喜んでYESと言えない。ただ、仕方のないYESで3月からここ数ヶ月対応してきた。生きていくコミュニティが、まだ学校の友人一つともなると、継続的な交際はここでの私の命綱のようなものだ。日本よりは安全、なのかもしれない。それでも、もしあの人が、この人が、実はコロナにかかっていて、私も会っていたとしたなら、と思うと恐怖は消えない。自分がもしかかったら、心から頼れる人なんてオスロに1人としていないからだ。全部1人で生き抜かなければならない。友人はパートナーがいる、すぐ会える家族がいる。でも私は1人だ。大袈裟な話だけど、もし自分がコロナにかかって、死んだら家族は会いにも来れない。私がいない寮の部屋だけしか待っていない。でも、会おうと誘ってくる人間は、そんな私の不安や背景を1ミリも想像できずに軽率に会おうと言ってくる。軽率にデモに参加する。そんな不安から激しくNOと言いたい自分の心を置き去りに、身体が、脳が、YESと言ってしまう。そうしないとここで生きていけないと思うから。この数ヶ月は心と身体が2つに分かれて、それぞれの主張が相対抗していて、それでもなんとかやっていかなければいけなくて、ずっと身体の、脳の主張に従ってきた。分離した心が辛かった。心をすごく後ろの暗い所に、その主張が聞こえないように乱暴に追いやって、周りに合わせて身体だけ走ってきた感じだ。
自分の中から、とめどなく溢れてくる客観的な視点がとてもとても苦しくて、真っ向から対立する自分の本心と、その体裁をどう扱っていいのか分からない。
それでも自分は健康で(メンタルはめちゃくちゃ暗いが)、毎日気持ちの良い風が吹く国で生きている。
自分でも驚くくらい、こんなにコロナに影響されるとは思っていなかった。
コロナが、こんなに美しい夏の日を、とても暗い気分にさせるとは思わなかった。
こちらの図太い友人たちのように、日常を存分に、心から楽しめない自分が憎くて仕方がない。
なぜ毎日起きて、素晴らしく晴れているのに、こんなに悲しい気持ちになるのかが分からない。
夜の21時でも、太陽はそこら中を明るく照らしている。
3rd May Failure
15th January Fucking loneliness
半年が過ぎて、新学期が始まった。
こちらに来てから感情的に反応することが多くなった。
主観的に生きているからかもしれない。
日本に一旦戻って、またオスロに戻って、ものすごく複雑な感情がある。
私にとって、日本は愛すべき場所である。それは私の祖国であり、家族がいて、友達がいて、今までの経験から知っている風景があるからだ。
それでも将来過ごしたいと思える場所ではない。日本はとても小さい。それはそれで幸せだ。でも、私にとっては色んなしがらみや、ルールや、守る必要なんて全くない、ただそれが支配しやすかったり、権力を感じたかったりという理由で存在する押し付けられる共通意識やいわゆる規範がとにかく自分を小さい存在に感じさせてしまう。何もできない気がしてしまう。のびのびとできない。家族がいることは安心だ、でも、それは甘えでもあり、同時に縛りでもある。
それでも、オスロはその代替にはならない。
もしかしたら私はまだその代替場を見つけるプロセスの途中なのかもしれないが。
新学期になって、今までに作った、たった12人ほどの同じコースを取っていた友人と久しぶりにハグをし、今までにない嬉しさも、勿論覚えた。このひとたちは、少なくとも私を知っている、という居心地の良さと有難さ。異国の地で、とりあえず一人ではない、という到着時には得られなかった安心感。それでも、そう感じられるのはあとたった1年半しかない。きっともう終わる。
この、所属している幸せを感じていられるのもほんの一瞬だ。一瞬だと分かっているから、もう会えないかもしれないから、私は今、全身の細胞にある愛情を搾り切る勢いで良い人間であろうとしている。いつの日か、得られるわけでもないであろう、見返りを心のどこかで求めながら。最高にいい人間だった、いい日本人だった、というイメージを一人一人に残したいという気持ちすらある。私はそんな薄汚く底意地の悪い人間である。そんな姑息な人間は、そのあと一体どうやって生きていったらいいんだろうか。たった一人で、この突然襲ってくる強烈な哀しさを伴った寂しさに、この先、どうやって向き合っていったらいいのだろうか。
居場所ってなんだろうって思う。
自分が心地よくいられる場所なんて、心から安心だっていられる場所なんて、この世でいくら追いかけてもないんじゃないかと思う。
でも、私は居心地を追い求めて日本を出た。怒りや悔しさや、やるせなさや、絶望や失望の感情をやり過ごしてみても、私は寂しさという感情がどうしても苦手だ。
寂しさはいくら自分が家族といようが、友達といようが、一人でいようが、二人でいようが、日本にいようが外国にいようが、どこにいたって隣にいる。
ずっと見ないように、と目を背けていても、ある日突然、寂しいという事実が真理として私を飲み込んでくる。
漆黒の穴がずんずんと下に下に掘り進められていくのを、まるで何も感じていなかったかのように、急いで仮埋めする。
その繰り返しである。
太陽に当たってないからなのか、なんでこんなに気持ちが暗くなっているのか自分でもさっぱり検討がつかない。
寂しさなんて気にしない人間に、さっさとなってしまいたい。
15th October Needing calmness
怒涛のような日々を消化するのに精一杯になっていたら、いつのまにか晩秋になっていた。
外に出ればひんやりとした空気が細胞を刺してくる。
私が一度に体験したものすごい密度の日々を表すかのように、木々もまた、一瞬の速さで多量の葉を落としてしまった。
そして風邪をひいた。だんだんと年をとるにつれて風邪の深刻さ、辛さが増している気がする。
一人で治さなければいけないこの状況で頼れるものは日本から持参した薬のみ。どうしたら良いかわからない朦朧とした状況で、ひたすら寝て、ひたすら食べて、体で咳をする。痛烈な喉の感覚がまだ私は肉体なのだと思い出させる。
2日前までベルリンにいた。私らしくない、いや私らしいハプニングを犯してしまったのもあったし、毎日全力で楽しんだ。全力で悔しくなった。風邪になった。全力で疾走しすぎてしまったようだ。でも、今私は全部出さないで、いつ全力になったら良いんだ。
生きていると、自分が無くなりそうになる。
友人が11月にノルウェーにくるので、その対応をしなければいけないのだが、友人は自分の観光のことで頭がいっぱいなようで、私はツアーガイドなのだろうかという気にもなってくる。私が私でいる必要はあるのだろうか。それは私である必要があるのだろうか、と。勿論、わざわざ旅行しにきてくれるのはとても有難いことだ。最近は、自分が上手く人の人生の中で利用されている気しかしなくなっている。そんな懐疑的な見方をする自分がものすごく嫌で、でもその感覚は拭うことはできないままだ。そんな人間関係とはおさらばしたいし、この先もそんな人間関係は避けて生きたいものだ。
それぞれの時間を、それぞれが一生懸命過ごしていて、時々周りが見えなくなってしまう。私の周りに余裕のある人はいる気がしない。みんな頑張って生きている。自分のように余裕がないと分かっているからこそ、相手に頼ることも難しいと感じる。なかなか相談なんてできやしない。ずっと悶々としたままだ。
日々を過ごすのにいっぱいいっぱいになっていたら周囲の要望に合わせすぎていた。それはきっと自分のビジョンがノルウェーでしっかりないからだ。私がやりたいことはなんなのか、集中して見ていたい目標やビジョンは何なのか、冷静になって見極めなければ、このまま流されていってしまう危機感を覚えている。本当に私はそれがやりたいのか、ちゃんと答えを出さなければいけない。