Give and give and give...? 20th July

「コネクション」「人脈」「ギブアンドテイク」について

 

今までの違和感の一つだった人脈の捉え方

 

建築学生だった時から、人脈を作らなきゃ、という強迫観念のもと、動いていた節もあった。

将来のために、この人とコネを作っとかなきゃ、この人と仲良くなっとかなきゃ、と心の底で考えていて行動してた。

そしてそんな思惑が渦巻いた中で長く連絡を取り合っている人なんていない。相手の思惑を感じると直感でスッと引いていく自分がいたし、相手もそうしていると思う。

 

ここ数年、それは疲れる考え方だな、と感じはじめた。

先輩から送られてくるメッセージは大抵ボランティア的手伝いが必要な時で、でもそんなのやるために連絡先交換したんじゃないって思ってしまう。

だったら、なんのために?

 

利用し、利用されるため?

あなたを利用したい、という下心のある要求は時としてプレッシャーになる。

私はこれだけやってあげたから、あなたからこれをもらうのは当然でしょ、という傲慢さが生まれてしまう。

その中で生きていくのはやっぱり疲れる。

 

以下、(ゆっくり、急げ-カフェからはじめる人を手段かしない経済- 影山智明著 2015年第一刷発行 大和書房 p,106-107)より抜粋

 

ついつい、「利用価値」で人間関係を判断してしまう。そしてその判断基準はやがて友人関係にまで及ぶ。「こいつとは付き合っておこう」。いずれ仕事で力になってもらえそうだから。いつか役立ちそうだから。(中略)こうして「利用し」「利用される」関係が世の中に広がっていく。成果主義の人事考課がこの傾向に一層の拍車をかける。

「人脈」という言葉はまさにその象徴だ。人間関係を手段と捉えた言葉。ぼくが世界で一番嫌いな言葉でもある。

相手に利用価値を求めるということは、自分も利用価値を求められるということ。そうして一人ひとりが自らの「利用価値」を高めるべく常に有形無形のプレッシャーを受け続けるということは、そこにもちろん正の効用もあるにしても、常に不安と背中合わせということでもある。

 

 

今までぼやけて言葉で表現できていないことが書いてあり、そうそう、そういうことだよねと腑に落ちる。

人生の中で表現しきれない言葉や感情を見つけ、それを昇華することができるから、読書には本当に助けられている。

 

例えばお手伝いをしたとある建築家の方とお話した時に、友人伝いで、「あの子には相談乗ってあげたから、あれ以上何もあげないわ」と言っていたと聞いて本当に衝撃を受けた。私としては自分の情報を開示しただけだった。相談をしたつもりもない。

それがいつの間にか相談と受け取られていた。その会話は自分の労力と時間の対価になってしまった。

 

そういう大人だっている。

 

人間を利用価値でしか捉えられない大人が、この世にはたくさんいるんだ、と悲しくなったというか、むしろ憎くなったというか。そんな中で生きていかなきゃいけないんだ、と思った。

 

いやらしい。

これからどれだけ私は利用してやろう、と思われるんだろうか。

これからは、そんないやらしい人を見極めていかなければならないのかってハッとした瞬間だった。

 

 

 

これを踏まえて私はどんな人間でいたいのか。どの方向からハッピーの音がするのか。

人間関係を、「利用価値」ではなく、「経験」や「楽しさ」、「心の豊かさ」で捉える。

 

この人と一緒にいると、

心が安らぐ、とか、

楽しい、とか、

嬉しい、とか

元気になる、とか

笑える、とか

面白い、とか

学びになる、とか

 

シンプルに一緒にいたい、でもいい。

沢山の人と、そんなハッピーな感情を持って付き合いたい。

私といる時も相手にそんな感情になってもらえてるといいなって思いながら。(これもある意味価値や期待なのだろうか)

相手に期待を持たずにそんな風に生きていきたいと思っている。(難しいけど、心得のような感じ)

本当はみんなどこかで価値とか役にたつとか見た目とか生活レベルとか年齢とか性別とか、そういうの全部取っ払ったまっさらな自分を眺めてもらいたいと思っているんじゃないか、と思うので、そういう相手にも自分にもゼロの状態でコミュニュケーションとっていけるのが理想だなと思う。

 

と、偉そうなことを言ってみるけど、実際には自らそういう価値判断で動いてしまっている時もある。

利用関係を求める人たちの中だと、私のような人間は搾取されるばかりになってしまう気もする。

警戒してしまう。相手が人間関係に何を求めているのかを見極めていくのも難しい。

 

 

なるだけ、利用されずに、同じハッピーの音がする人を探して、そっちの方に歩いていって、そういう人達と付き合っていけるといいなぁ。

 

5th July

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29日に届いたバースデーカードが、本当に素晴らしい経験を運んできてくれるようなお守りのよう。久々の更新。

 

今までの出来事がやっとポジティブに昇華できそうな予感がする。

ようやく、、今まで書いた記事を客観的に見られるくらいには。とても恥ずかしい。中二病みたい。

 

ずっと書かなきゃな、と思ってたことを書こうと思う。

 

何月何日か記録してないが、インドのバラナシでの出来事である。

バラナシのガートでのこと。

 

太陽がカンカンと照る中、はなちゃんと二人でバラナシ市内を散歩し、ガートの階段に座ってぼーっとガンガーを眺めていた。時折物売りが流暢な日本語でシールやハガキを売りつけてきて、それを「ナー、ナー」と追い返していた。

ボーっと川を眺めていると、暑さも極まって何も考えることもなく、ただ二人で大きな木の木陰に座っていた。木陰から吹いてくる風は心地よかったが、汗は滝のように流れていた。

 

その時、目の前に鮮やかな緑のサリーを着た、赤子を抱えたインド人の女性が現れた。彼女は私たちの視界が入るくらいのところに、思いっきり意識して座り込む。

私の中ですぐに"ミニ警戒アラーム"が鳴る。

 

「...来たね。」

「なんか来たね。」

「ムシしようか」

 

とりあえず日本語で態度を決め、それでもずっとガンガーを眺めていた。

最初、彼女は笑いかけてきた。

ヒンドゥー語で何か言ってるみたいだ。

でも一向に無視する私たち。

 

やめる様子は全くない。

 

「何言ってるか分からないよ」

 

と日本語で答える。分からない言葉には相手が分からないであろう言葉で答える。

 

「分からないよ」

 

「(ヒンドゥー語)njdnsjdfjsd;fdj.....イングレス......? マネー」

「マネー、マネー、ルピィ」

 

彼女はどこからかだしたのか分からないツールやジェスチャーを駆使し、アピールを繰り返す。水が入っている哺乳瓶で赤ちゃんをあやしたり、赤子の額に手を当てて、ひたすらヒンドゥー語で話しかけながら。

 

「熱があるのかな?」

「ミルクが買えないのかな?」

「ずっと言ってくるね。」

 

赤ちゃんはぐったりとしているのか、ただ寝ているだけなのか分からなかったけど私たちに色々と想像させるツールをとにかく使いまくってくる。

 

 

10ルピーをあげてしまえば簡単なことなのに、この時、私は頑なに10ルピーあげてたまるかと思っていた。

そのことよりも、何故貧困があるのか、どうしてこの女性は私たちの前に現れたのかをずっと考えた。必死で10ルピーをねだる女性を前に、何故、私が10ルピーあげなきゃいけないのか、10ルピーをあげただけでこの女性の生活は根本的に変わるのか、考えていた。

はなちゃんは帰り際にその人に10ルピーをあげていたけど、私は頑なだった。日本では世界が平和であってほしいと願ったり、もっと貧しい人が少なくなるべきだと漠然と思ったりしてきたけど、実際その人間を前にすると1ミリも自分のものを譲りたくない薄汚い欲が出て来て、全く意地悪な人間になっていた。

 

日本に帰ってからもずっとそのことが引っかかっていて、なんで私はあの時たったの10ルピーをあげられなかったのかすごく考えた。その時、自分の冷酷な部分が認められず、"ここで10ルピーをあげてしまうのは間違っている。何にもならない"と盲信していた。

 

今思えば、そこに心からの人間に対する(その女性に対する)慈悲の心や人間の境遇に対する想像力が足りなかったのだと思う。もし、その女性が自分だったらとは考えなかった。猜疑心たっぷりの目で彼女を見ていた。もっと愛のある目で、自分と同じように彼女を扱うべきだったのではないか。人間として、私も彼女もただ出生場所が違うというだけで、私はたったの10ルピーをあげることすらできなかったのだ。

 

だから、世の中の偏見や差別をなくすのは容易なことではないとも思ってしまった。あの時インドのガートで私よりも貧しく子供を抱えたジプシーの母親にどんな行動をしていたら愛だったのか、私には全く見当もつかない。単純に自分と彼女が違う場所に生まれたという偶然に哀れみを持てばいいのだろうか。そんな視点に立ちながら振舞って(生きて)いくことはなかなか難しい。

 

あの時、目の前の美しい景色を堂々と遮ぎる彼女に優しい心が持てなかったのはなぜだろうか、なぜ心から何かしてあげられなかったんだろう。心からお金をあげられるような人になるには、私にはまだまだ高いハードルがある。友人の心の広さから学んだ出来事だった。

 

 

2nd May

友達からの率直な感想が聞けたり話せたりするから、こうやって文章を書いてみるのも悪くないなと思えている。とてもありがたい。

 

 

帰ってから、色々と書く言葉を溜めていた感じがする。

経済の流れと、お金とは何なのかと、人の生活の仕方と、生き方について本を読みながらゆっくりと考えていた。

自分はどんな生き方をしたいのか、どんな生活を望んでいるのか。

 

そもそもカナダでの生活から現代の生活形態に対してフラストレーションがとても溜まっている。

ホームステイ先のホストマザーがハイテクを信頼した効率主義者みたいな人で、食洗機をやたらと使いこなし、ipadで生活してるみたいな人だった。料理を作るのに1時間もかける必要はない、日本料理はなんでそんなに手間がかかるんだ、時間の無駄だ、とめちゃくちゃ文句を言われた。料理の時間を短縮して自分の時間に費やすべきだと言われた。

フラストレーションが溜まっていたのは英語でそのことに反論できなかったし、初めから自分の考えがまとまっていなかったのもある。

 

便利であればその分充実した時間を過ごせるのだろうか?満足な時間を過ごせるのだろうか?

勿論、人によってその基準は違うのでそういう生き方をしたいならすればいい。

日常の雑事時間を縮小するために技術に頼って生活するのは悪いことではない。

 

でも、頼りすぎてない?

 

生かされているという感謝の気持ちを忘れ、環境を破壊してまで技術に盲信してしまうのは本末転倒なのではないか?

目の前のことを雑に片付け、自分が見たくも聞きたくも話題にしたくないことにも蓋をして技術に頼って生きるのは

自分のことも周りのことも見失わない?むしろ自己中心的と言うべきか

 

まだうまく言葉にできないことが沢山ある。

 

都市部で生活している人はお金さえ払えばいいと思っている。

工業化した農業に、スーパーに並んでいる野菜にありがたみも何も感じなくなっている。その生き方ってどうなの?

(とは言ったものの、今まで自分はありがたみも毎度感じずに野菜を買っていたので、批判できるものでもない。)

 

今は個人の自己実現を追いかける社会になっているんだけど、なんて言うか。

他のこと無視して自己実現してていいの?って思う。(勿論いいんだけど)

 

 

そんな疑問が沢山浮かびつつ、ここ最近は、

料理とか、トイレ行ったりとか、ご飯食べたりとか、寝て起きたりとか、喋ったりとか、そうやって生活する事の方が人間の本質なんじゃないかと思っている。(シャンティニケタンで発見した真理の一つ)

仕事とか、お金とか、って私たちの本質なのか?(仕事やお金が大切ではないと言いたいわけではない)

 

 

今は、生活の一つ一つの出来事をもっと大事にできる人になりたいし、そういう事を楽しんで大切にしている人たちが沢山いるところに住みたい。

その基本事項はスキップしたくないと個人的に思う。

料理だって自分の体のために作るものなんだからとっても大事だと思う。料理する事は自分の身体をつくる事、それをせず、栄養ドリンクに頼るのはあべこべだし、薬に頼ってしまうのもあべこべ。食材にも心を配って、楽しんで料理して、楽しんでご飯を食べたい。スーパーに並んだ野菜じゃなくて自分の庭から取れる楽しんで作った野菜を食べたい。(毎日ご飯作るのも面倒だけれどもね)

 

 

 

 

 

なんでそんなことに時間をかけるんだと言われ、私は物凄く怒っていたんだと気づく。(食べることも好きなので)

 

 

そんなこと、だと?

 

表でろぉぉぉぉおぉおおおお

 

 

 

とは言えなかったけど、心の中はこんな感じだった。今も怒れる。

 

 

 

何かを作ることも、食べることも人にとって神聖なことだと思う。(私にとって?)

食だけに言えた事ではなく、手間をかけることにこそ、お金で払えない価値があり、

無駄と省いてしまうことにこそ大切なことが隠れている。私たちはそれを見ようとしないだけだ。

(信念は人それぞれだからこれがすべてというわけでもないけれど)

 

以下、「スローシティ 世界の均質化と闘うイタリアの小さな町 島村奈津著(光文社新書)」から抜粋

 

「生きている上で必要なものは何か。仕事や家や車やテレビ、バカンスを手に入れたからといって、人はそれだけでは決して生きてはいけない。

魚にとって水が必要なように、人が生きていく上で根源的なもの、それは環境であり、人間サイズの、ほど良い大きさの町だ。そこに文化的なものが息づいていることだ。

工業化された食が溢れ、コピー文化が氾濫する社会の中で、いかにオリジナルな文化が生き残っていけるか、それが僕らの課題なんだ。そのために必要なのは、交流の場だ。決して町の構造や建築だけの問題じゃない。むしろ町を生かすために大切なのは、目に見えないものの価値だ。例えば、人と人との交流、会話、農家の知恵、職人の技、食文化、信仰そういった目に見えないものすべてだ。それが僕らの生活の質を変え、満ち足りた時間を保証してくれるんだ」

 

 

都市圏で生きていくのが難しいと感じはじめた今日この頃である。

 

The flood of words 23th February

生きづらかった。

今まで生きづらいなという事を薄々感じてはいたけど表現しても分かってもらえないかなという思いがあった。

他人の表面的話にはついていけないし、友達の間でも実のない話には面白くなくて会話に入れないって思ってしまうことの方が多かった。小学生の時からそうだった気がする。友達がなぜ昨日のテレビ番組の話をして(お笑いとか特に)面白いのかが分からなかった。今でもそうで、話しても話してもこの人とは表面的な会話しかできないんだな、私がおかしいのか?って思うことがいっぱいあった。従姉妹とも、姉とも、母とも、父とも、多分祖母とも、どこかモヤモヤしたまま会話してた。話していても平行線な感じ。絶対に交わらない会話。なんでみんな日常のどうでもいいことに囚われているんだろう、と思って、なんでみんな自分が関係もしない出来事の事ばかりこだわっているんだろう?と思ってた。

 

どうしたら私が興味を持つことを話せる人と出会えるのかが分からなくて、言語化できないモヤモヤ状態のまま、海外でそういう人に会った。多分海外在住の人は苦労した分面白い話が聞けたからだと思う。

海外に行けばそういう人に出会える!と思った。(今まで出会えてきた人たちがたまたまそういう方たちだっただけ)

そんなことなかった。勝手に海外の人は人生に対する造詣が深いと思っていた節があったみたい。(色々失礼)

 

本当に人によるんだな、と思う。海外でも私がしたいような実のある会話をしない人もいっぱいいて、

それとは逆に、あ、この人とはどこか会話が通じる、分かりあえるかもしれないって一瞬の感覚で気づく出会いもあった。

 

それで勝手に苦しくなっていた。

私はいつも勝手に苦しんで考えすぎてしまうことが多々ある。

この人怒らせちゃったかな、とかこの人にはどう言ったらいいかとか、傷つけてしまうかな、とか言う前も言ってしまった後もすごく考えてしまうし後悔もいっぱいする。それを気にせずにうっかりポロっと言ってしまうこともあるけど、、気持ち悪いよ!と言われても考えてしまう。特に初対面の人とか、妙に気を使わなければいけないと感じてしまう人とか、自分が好きになってほしい人とか好意を失いたくない人に。

 

そして、自分の意見を押し付けてくる人にはものすごく抵抗を感じる。自分の主張を言いたいだけの人にはものすごく疲れる。特に弱ってる時。

 

「あー、分かった分かった分かった….ハイハイハイハイ、そう思ってるんだね分かるよ。すっごくよく分かるよ!でも、い、今の話聞いて胃もたれしそうだから寝るね!

 

ってなる。

 

受け止めるので精一杯になる。多分相手からしたら大した重要度じゃない意見とか発言でも、私からしたら発言を聞いた時点で10kgの米袋4つぐらい首に乗ってる感じ。(発言者による)

 

 

 

英語で喋る時に考えるな、って言われるんだけど、そこにどうしても引っ掛かってしまっている。

どうしてそんなに早口で喋れるの?

って喋れる子に聞いたら「己の性格だ。母国語が早い人は早い。」と言っていて妙に納得してしまった。

それでも英語を話す時には瞬発力が必要とされる。日本語で表面的な会話をするのすらごく最近心の抵抗なくできるようになったぐらいだから、なかなか身に付けるのが難しい所。

 

ホームステイしてるお家の息子の誕生日会は地獄だった。

瞬発力ないのに、ベラベラ高速で喋ってる英語(止まる様子などない)10人の会話の中に入るなんて不可能。。言葉の洪水に溺れるとはまさにこのこと。スロースピーカーとスローな思考では会話に全く追いつけずに、聞くだけで精一杯。舌が喉の奥に引っ込んだ。喋りたくても喋れない。無気力。。。ひたすらに口角をあげるしかなく。周りの人たちが私に気を遣ってくれてるのもすごく分かったからその分それに反応できない自分にものすごく怒りを感じたし、とても悲しかった。

 

“皆がただただ話したくて、競うように次々発言し合うこともあるでしょう。この場合、HSPが議論に加わるのはほぼ不可能です。なぜならスローペースすぎてそのチャンス がつかめず、また礼儀正しすぎて会話に割って入れないからです。” (イルセ・サン. 鈍感な世界に生きる 敏感な人たち (Kindle の位置No.1387-1389). 株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン. Kindle . )

 

ものすごく言い訳がましいけど、本当にこういう状態だった。

自分の部屋に戻って、なんで自分はこんなんなんだなんで喋れないんだって苦しくて自分を責めたし後悔どころじゃなかった。自分が違う人間であることが苦しかった。あの時間もそのあとの時間も辛かった。精神的に落ち着かなくなると2、3日とか下手したら一週間そのことしか考えられなくなる。悲しみと不安でいっぱいになって英語にも全然集中できるような精神状態ではなかった。

 

Higly Sensitive Person (とても敏感な人間)。外交的で社交的で大人数が好きではなく、内省的な一人の時間や少人数での深い会話を好む性質らしい。沢山の人と交流すると心のハードディスクがすぐいっぱいになり疲れてしまうのだ。そのぶん共感能力は人一倍強いらしい。そしてその分不安や思い詰めることが増えるらしい。また、人からの言葉を真面目に受け止めてしまうからショックが大きかったり圧倒されてしまうらしい。この本読めて本当に良かった。今までの自分の「私は他の人と違っておかしい」という苦しみが昇華された。不安と恐怖の80%くらいが消滅した気がする。なんで人に恐怖感を抱くのかがよく分かったし、対処できるよねって思える。こんな性格レッテルを貼るべきでもないと思うし、人間変化してるから一時的なもので時期と体調によって突出するものもあるから一概には言えないだろうけれども。

 

 

どこか喋る人を選んで生きている。友達のことは本当に好きだから、そんなに選択的になることに意味はないし喋ることも好きだけどバカみたいな話も。でも本当に楽しいって思って生きてきた時間が少ないと感じている自分もなんとなくいる。人と喋ると、あ、この人はこの会話ができない人なんだとよく思う。そうなると話しても無駄だから避けるし、表面的な会話しかできないから表面的な薄い心の関係しか築けない気がしてしまう。

 

 

私が出会いたい人には自分から探していかなきゃ出会えないんだなぁと思う。

探しても出会えないことの方が多いんじゃないかなとも思う。私は、もっと人生でその人が大切にしてる事とかその人の世界に対する考え方とか、優しさとか、そういうその人の大切にしてる部分を知りたいし、そういう会話がずっとしたかったしこれから色んな人とそういう会話がしたい。(なるべく少人数で)

Stupid thought 13th February

外国に留学したかったのは自己顕示欲が強いからなんだと分かる。

カナダに来るとみんな人種が違うのに、そこで一生懸命生きていて、他人と自分が違うってことがわからない。移民の国だからか差別意識がとても低い。カナダにいることはカナダ人ににとって”普通”なことなのだ。いろんな国の人と一緒に住むことは当たり前のことなのだ。

 

それで、最初から一人でビクビクして電車とかにのってたんだけど、誰も私のことを外国人として見ないから、かなり違和感だった。外国に来たのに、なんで?ここは外国?みたいな。とても不思議な感覚だった。とても恥ずかしいことだけど、海外に訪れる度、自分が外国人だということにどこかしら優越感を覚えていたようだった、すごく変なことだし、とてもおかしなことだけど。そんな自分をどこかスゴイって思いたかった。ものすごい驕りだ。

 

私は何かをやりたいからとか純粋な目的意識よりも、他人にこう思われたいっていう自己顕示欲の方がとても強かった。(今も強い多分)他人にスゴイって思われたい。外国で辛い思いして頑張った自分をスゴイって思われたい。褒められたい。

でも、実際スゴイですねって言われても全く嬉しくなくて、いやいや、そんなつもりじゃないんだ、そう思われたいんじゃないんだ、とも思う。こんなに私は薄っぺらいものを求めていたのかと心のどこかで分かっているかのように。

両極端な気持ちが存在する。

 

他人というより、私が好きな色んな人から、スゴイって思われたいのかも。よく頑張ったねって言われたいのかも。だから空虚感を感じるのか。一心不乱に本当に純粋な”好き”で研究をしている人からしたらカス並に不純な理由だけど。

だから自分のやってることに自信が持てないのか。どこか後ろめたい気持ちがあるから。自分がすごいと思われたいがために建築を利用している感じ。でも、それがないと個性がなくなってしまうんじゃないかという恐れも抱いていたりして。実際ものすごく、自分が勉強した分野のことを話さなければいけない時には助かっている。それがないとコミュニュケーションができない。自分がどういう人間か表現できない。自分がやって来たことを言わないといけない。でもそうやってコミュニュケーションとっていかなきゃいけないのもとっても苦しいと思ってしまう。本当はみんな過去のことなんか関係なくて、今自分と向き合って喋っていることに価値があって、その共有の時間がとても大事なんじゃないだろうか。難しいね。本当は人間多面体なのにね。例えば初対面の時に、過去のことだけで相手のことをこういう人なのか、と理解しようとしたりとか。そのまま過去の体験に準じたままきっとこうだろう、ていう態度で接してこられるのとか(特に家族)。その作ってしまった壁を壊すのが難しい。今まで発見してきた自分を共有できることも大事だけど、何か新たな感覚や体験を一緒に共有することの方がもっと大事な気がする。だから全く知らない人と出会ったり、喋ったりすることはとても貴重だし、刺激的。(偉そうなこと言いつつ、そんな態度を実際には取れない私)

 

建築のことが好きなのは確かなんだけど、ずっと触れていないとその感覚が風化していってしまうのが身に沁みる。

たやすく忘れられる。自分が学生時代に掴みかけていた好きの感覚が幻だったんじゃないかと思う。本当は心の底では嫌いだったんじゃないかと思う。

それぐらい今、自分が本当に好きでやりたいことが分からなくなってきている。困った。

 

それでも、いろんな国に行って、その国の人々と実際触れ合ったり、話したり、理解し合うことはとても重要だと思う。

今までの自分の稚拙で姑息な考えには本当に気をつけなければいけない。本当に自分はプライドが高い。

Commuter 2nd February

朝混みこみの電車にいつも乗りたくなくて、見送ってしまう。

みんながのっている電車に乗りたくない。苦しい思いをしてまで電車に乗る必要がないと思う。

息ができないくらいにまで、電車に乗って時間を過ごすことの意味が全然わからない。

 

そんなために生まれてきたのではないと思うのだ。

毎日苦しい電車に行って、箱のような建物に入って、デスクでパソコンと向き合って、お金を作るのが私の人生じゃないと思う。中央線に毎日乗っている人たちの人生は私にとっていつも"???"なのだ。(そう言える私はとても幸せな人間だと思う)

 

 

思えばいつもそんな選択をしてきた。

みんなが行く高校には行きたくない。みんなが行く大学には行きたくない。みんなが働いている時に働いていたくない。

みんながやっていることを私はしたくないし、みんなが思うように私はやりたくない。

 

 

なぜ同じ生き方を選ぼうとするのかが分からない。

なぜみんな”出勤”するのか分からない。

 

私は社会不適合者なのかもしれない。

 

あなたが良いというものを私は良いと思わない。私が良いと思うものは他の人の選択よりも優れているとかではなくて、

それは比較できないものなのに、基準なんてないんだから、みんな自分の定規を人に押し付けてくる。私もたまに押し付けてしまう。

でもやっぱり本来はその物差しはとっても貴重なもので、比べられるようなものじゃなくて、一人で大事に育てていかなければいけないものなんじゃないだろうか。

早くその一人の物差しがそれぞれ大事にされる時代が来ると良い。みんながみんなの物差しを尊重できる人間になれれば良い。

それはあなたに認められるから良いとか、悪いとかじゃなくて、その人の物差しを理解して、そっとしてあげられることなんだと思う。いくら悪いと感じてしまっても良いところを見つけてあげられることなんだと思う。自分とその人の違いを面白がって楽しめることなんだと思う。難しいけど。(きっとこれが健全なコミュニュケーションと人間関係の距離の保ち方なんだろうな)

 

ブーイングとか、拍手とか、本来は一人の意見を表現するためだけの手法なのに、それが大衆の意見になっていて、それが社会の意見になってしまう。大衆がこういうから、正しいとか、良くない、とか、こんなに沢山の人があなたのこと悪いと思っています、って。それって物凄く実は参考にならない意見なんじゃないんだろうか。いくら多くの人がそういうからといって、良い悪いって言えた話じゃない。量ではなく意見の質な気がする。そして中身な気がする。

本来一人一人違う人間なのに、社会でまとめてしまうのがおかしい。みんなまとめようとするからいけないんだ。理解することと、まとめることは違う。

まとめることは、物事をシンプルにしてしまうことだ。確かに、まとめることは理解を助けるけれど、そのぶん抜け落ちてしまった文脈は悲しくも忘れられてしまう。人間は複雑なことは理解できないし、面倒臭がりやだからだ。

その今まで抜け落ちた細かい文脈が、実は現在の沢山の問題の原因だったりして、私たちはまたそれらを拾い上げていかなければならない。

きっとその繰り返しなのだろう。

 

 

ものすごくへそ曲がりで天邪鬼だけれど、”みんな”と同じ選択をすることは私にとってものすごく不快で、とにかく我慢できない。

人生の中で何度も他人の物差しで私を図られてきて、(中学生の頃なんかがピークだね)心の中でものすごく違和感を抱えて生きてきて、やっと今、自分は他人(家族でさえ)に図られる必要なんてないし、他人が私を図る権利なんてないんだと思う。

同時に、私も、他人を図る権利なんてない。意見して押し付ける権利なんてない。当たり前のことだけれど、当たり前なことのはずなのに、それを今まで実感できたことなんてほとんどなかった。

 

 

こんな主張も私の物差し。めちゃくちゃ自分の生き方を正当化してるけど、驚くほどの開き直りだけど、それでも良いって心の中で確信できるような自分でありたい。(何かしらの謙虚さを残しつつ)

 

承認欲求満たしたくなっちゃうけど、難しいけど、でもみんながみんな、他人のこととやかく言わない社会になれば良いと思う。

 

 

8th April in Fukushima

とても美しい村なのに、とても良い人なのにそれが上手く伝わらないのがとても残念に思い、悲しい。村の人々がとても勘が鋭く、話が達者で驚く。いろんな人の話がとても貴重に聞こえる。なんだかとても近いところにいるのだけれど、それが上手くいかない感じだする。いろんな方の話がとても面白く、刺激になって有難い。とてもワクワクしている。