Commuter 2nd February

朝混みこみの電車にいつも乗りたくなくて、見送ってしまう。

みんながのっている電車に乗りたくない。苦しい思いをしてまで電車に乗る必要がないと思う。

息ができないくらいにまで、電車に乗って時間を過ごすことの意味が全然わからない。

 

そんなために生まれてきたのではないと思うのだ。

毎日苦しい電車に行って、箱のような建物に入って、デスクでパソコンと向き合って、お金を作るのが私の人生じゃないと思う。中央線に毎日乗っている人たちの人生は私にとっていつも"???"なのだ。(そう言える私はとても幸せな人間だと思う)

 

 

思えばいつもそんな選択をしてきた。

みんなが行く高校には行きたくない。みんなが行く大学には行きたくない。みんなが働いている時に働いていたくない。

みんながやっていることを私はしたくないし、みんなが思うように私はやりたくない。

 

 

なぜ同じ生き方を選ぼうとするのかが分からない。

なぜみんな”出勤”するのか分からない。

 

私は社会不適合者なのかもしれない。

 

あなたが良いというものを私は良いと思わない。私が良いと思うものは他の人の選択よりも優れているとかではなくて、

それは比較できないものなのに、基準なんてないんだから、みんな自分の定規を人に押し付けてくる。私もたまに押し付けてしまう。

でもやっぱり本来はその物差しはとっても貴重なもので、比べられるようなものじゃなくて、一人で大事に育てていかなければいけないものなんじゃないだろうか。

早くその一人の物差しがそれぞれ大事にされる時代が来ると良い。みんながみんなの物差しを尊重できる人間になれれば良い。

それはあなたに認められるから良いとか、悪いとかじゃなくて、その人の物差しを理解して、そっとしてあげられることなんだと思う。いくら悪いと感じてしまっても良いところを見つけてあげられることなんだと思う。自分とその人の違いを面白がって楽しめることなんだと思う。難しいけど。(きっとこれが健全なコミュニュケーションと人間関係の距離の保ち方なんだろうな)

 

ブーイングとか、拍手とか、本来は一人の意見を表現するためだけの手法なのに、それが大衆の意見になっていて、それが社会の意見になってしまう。大衆がこういうから、正しいとか、良くない、とか、こんなに沢山の人があなたのこと悪いと思っています、って。それって物凄く実は参考にならない意見なんじゃないんだろうか。いくら多くの人がそういうからといって、良い悪いって言えた話じゃない。量ではなく意見の質な気がする。そして中身な気がする。

本来一人一人違う人間なのに、社会でまとめてしまうのがおかしい。みんなまとめようとするからいけないんだ。理解することと、まとめることは違う。

まとめることは、物事をシンプルにしてしまうことだ。確かに、まとめることは理解を助けるけれど、そのぶん抜け落ちてしまった文脈は悲しくも忘れられてしまう。人間は複雑なことは理解できないし、面倒臭がりやだからだ。

その今まで抜け落ちた細かい文脈が、実は現在の沢山の問題の原因だったりして、私たちはまたそれらを拾い上げていかなければならない。

きっとその繰り返しなのだろう。

 

 

ものすごくへそ曲がりで天邪鬼だけれど、”みんな”と同じ選択をすることは私にとってものすごく不快で、とにかく我慢できない。

人生の中で何度も他人の物差しで私を図られてきて、(中学生の頃なんかがピークだね)心の中でものすごく違和感を抱えて生きてきて、やっと今、自分は他人(家族でさえ)に図られる必要なんてないし、他人が私を図る権利なんてないんだと思う。

同時に、私も、他人を図る権利なんてない。意見して押し付ける権利なんてない。当たり前のことだけれど、当たり前なことのはずなのに、それを今まで実感できたことなんてほとんどなかった。

 

 

こんな主張も私の物差し。めちゃくちゃ自分の生き方を正当化してるけど、驚くほどの開き直りだけど、それでも良いって心の中で確信できるような自分でありたい。(何かしらの謙虚さを残しつつ)

 

承認欲求満たしたくなっちゃうけど、難しいけど、でもみんながみんな、他人のこととやかく言わない社会になれば良いと思う。