25th, March, 2017 in India 人間らしさについて

今日はTagore museumとSaturday Marcket, Kasahara と文房具屋へ行った。

 

 

タゴールの美術館の入館料は当時300Rs(日本円で600円かな?)。

現地人とビジターの入館料の差額が大きすぎて不服。なぜ外人はお金を取られなきゃいけないんだ!ナショナリズムを提唱していたタゴールの思想には反するよ!(笑)

まあ、結局中はそんなに見なかったんだよね。

2時前にウジャルがどこからともなく爽やかに現れてとても幸せな気持ちになった。

それだけで今日1日分の喜び。イケメンありがたい。

大きな木の下の木陰で、ミュージアムのお昼休憩が終わるのを待ちながら(ほぼ警備員から隠れながら)、ハナちゃんに心の中を吐露。嫌いなことをあえてやらない選択をする強さ。勇気。信念について(アドラーか)。それらがあることは良いことなのでは。他に、頑張ること、受けること、混ざることの3つ。私たちにはやりたいことがないという話。嫌いなことがあるということは人間に興味があるということだから良いこと?(なんでも二元的に捉えることではないけれど)

いっぱい喋って心が楽になる。

 

夕食はKASAHARAでChowmen(Veg)を食べた。

Kasaharaはインドのシャンティニケタン、ビスババラティ大学内にあるカフェ。

半屋外で屋根だけついている。綺麗な空間。カフェの名前の由来はタゴールが日本人の庭師のカサハラさんに自宅のお庭の設計を依頼したところから来ていた気がする。

人間性とは何か、という質問をオーガナイザーに聞いてみた。Humanityとは何か。人間らしさとは何なのか。彼らの話を聞いていると、感覚的に理解はしているが、なかなかコレといった共通言語が見つからないという気がした。村人のHumanityと私たちが考えるHumanityも違うかもしれない。一人一人違う感覚でHumanityを捉えていることがわかった。オーガナイザーのSさん曰く、日本語で人間性という言葉は既に使い古されてしまっているのではないか、Humanityを唱え出したのが経済成長が進んできてから警鐘を鳴らし始めたくらいだから、と。そういう言葉は逆行している出来事がないと生まれないのかもしれない。分かりやすくいうと戦争と平和みたいに。

Gさん曰く、人間性は人懐っこさだと思う、色んな側面からはっつけていったら人間が言う人間らしさが分かるのかもしれないと。

なかなか平行線な会話だった。その他、マタギの話や里山は庭か問題等。

 

で、ホステルに帰ってから色々と考えたのは言葉に踊らされているだけではないのかということ。言語で会話しようとするからゴッチャになってグルグルしてしまう。実際の人間性-Humanity-はとてもシンプルに目の前に現れているのではないのかということ。

 

<追記>3/26

メモにまとめて分かったのは、人間を人間性という1つの言葉でまとめることは不可能なのではないかということ。1人1人多様なコミュニティの中で生き、感じていることも全く同じとは言い切れない。コミュニケーションを通じて理解や共感はできても、100%同じ考えや思想をなぞることはできない。みんな全く違った個体が"人間らしさ"という一言で片付けられてしまう。多くの人や物や言葉に囲まれているから私たちはついなんでもまとめたがってしまうけど、1人1人の性格や生活に寄り添うことが求められる社会にならないだろうか。違って当たり前。それがベースになってたのがデンマーク。日本はそういう心やプライドは無くなってしまったのかなあ。Humanity

って実はそんなに簡単に使っちゃいけないコトバになっているんじゃないかなあ。英語と日本語はまた解釈が違うだろうけど。でもやはり人間性という言葉で全部括れない気がする。