To be as an Asian, to be as a Japanese 18th Aug 2019

オスロに来て、数十日間が波のように過ぎ去った。

最初に漠然と感じていた不安も恐怖も、今は静かに心の隅にうずくまっている。

 

ここに来て感じる強烈な孤独感や寂しさや、やるせなさが日増しに増す一方で、何気ないコミュニュケーションであったり、微笑みの挨拶だったり、さりげない人間の小さな優しさにものすごく救われている自分がいる。

 

一人でいる時間を贅沢に感じながら、自分がここで切実に体験した一つ一つの出来事が世界中の人間に大声で共有できないことをもどかしく思う。こんなに楽しい時間を過ごした、こんなに素晴らしい出来事があった、話すと小さく聞こえてしまう、雨つぶのような些細だけど幸福な出来事がたくさん降ってきて染み込んでいく。嫌だと思うことも勿論存在はする。嫌なことがあった分、辛いことがあったぶん、沢山の優しさを思いがけない所から、友人から隣にいる人から、動物や植物や自然からもらうことができる。私は今とても寂しいと感じているけれど、同時にとても幸福な人間だと思う。

 

人間はおんなじ、でも人間は一人一人それぞれ違う。

その視点に立ちながらコミュニュケーションをとってみる。時にアジア人であるという事を猛烈に自覚させられる瞬間が幾たびもある。その度に少しだけ胃が絞られるような悔しいような気持ちになり、疑問が浮かぶ。なぜ私はそんな扱いを受けるのか。髪が黒いからか、肌が黄色いからか、目が黒いからか、それとも私の話している言葉が悪いのか、コミュニュケーション能力が単純に足りていないのか。「日本人」ではない、アジアから来た人間。アジアだから、中国も韓国も日本もまとめられる。アジアから来た人間からは、同胞のように接せられる。それもまたなんとも言えない違和感を覚える。

 

異国で生活するという事は、自分の人種や国、アイデンティティを限りなく浮き立たせる。異国の人と話す事は、同時に少しづつ人種の違いや心の境界を深めてしまう行為なのかもしれない。ましてやその逆の方向に転換できる力が人種間差別を滅する唯一の方法なのかもしれない。それともこんな事を感じてしまう自分の方が差別者なのかもしれない。肌の色も、言葉の壁も、目の色の違いも、全部なくなってしまえば良いのに、と思う。しかしそこには、人間の異質性がなくなれば均一な世界になり、つまらなくなってしまうという矛盾がある。もしかしたら私は、日本人はあなたと同じであるという事をお腹の底から叫ぶようにここに伝えに来ているのかもしれない。

 

自分がアジア人だと自覚する瞬間がある度に、私はなるべく色んな人間に対してニュートラルでいたいと思う。もしかしたら西欧の中でも見えていないだけで心の葛藤はあるのかもしれない。平等な視点で、相手の立場を鑑みて接していけるように、そしてできるだけ寛大で、困っている人々に心から優しくあれるように。そして何より助けてあげられる人間でありたい。