4th April

旅がとうとう終わろうとしている。欠点すら可愛く見えてしまうのが本当の人好きなんだろうな。 それとも一長一短なだけか。この度を通して、まだ世界には良いところがたくさんあると感じることができた。

 

魔法にかかっていたみたいにどんどんと現実に引き戻されて行く感じがする。せっかく力が抜けたのに、日本語を喋るたびに、日本に戻っているんだなと思う。今までの世界がある意味夢の国だったようだ。日本に帰ろうとするとインドの良さがわかる。発展しきってない国にはまだプライドがない。人間にプライドがないってことがあのインドの独特の空気の緩さを醸し出していたのかもしれない。センチメンタルなことしか思い浮かばない。バカなことばかり考えていたなぁと思う。でもこの旅が終わった後、コーディネーターに感化されてしまうのも違う気がする。

 

飛行機で眠れなかったのが応えた。インドにいないという安心感はあるけれど、それはそれでまたつまらない。道端のチャイ屋や、次々に声をかけてくるトト乗りはとてもインドの雰囲気を作っていた。だからこそ寡黙で静かにルーティーンの仕事をしているようなおじさんは信用できた気がする。インドにあって、日本にないものは人々の毎日を生きる必死さと、そこから生まれてくる活気だった。日本はもう発展しきっている。ヨーロッパ圏やアメリカもそうだ。いろんな国の経済が行き詰まっている中で、どうやって人々の活気を生み出せるだろうか。人間はもう少し、発展すべきという焦燥感から距離を置いて、生活しなければならないのではないか。自立自存の精神は大切にしなければいけないと思う。もう無くしかけているその精神を、日本はどうやって取り戻せるだろうか。インド人もその精神は持っているとは言い難いけれど、やはり独自の文化を大切にすることで生まれるものな気がする。

3th April

私とはなちゃんの活動タイムがなかなか違う。

 

バラナシは人種のるつぼと言うけれど、それは本当でこの場所にいるとみんなと仲良くなれる感じというか、インド人からの外国人扱いはするけれど、外人の旅行者とまた同じというか色々と混ざり合っている感じはする。ガンジス川はただのでっかい川だった。神聖というよりきたねっという感じしかしない。この川を見ると四万十川に行きたくなる(行ったことないけど) 

 

インド人の物や人に対する扱いが平等なことにも気づいた。川も使うし、木も使う。人も使うし物も使う。全て同じように遠慮なく。対人(人に対する扱い)って自分に対する扱いと同じなのかもしれない。自分や人に厳しい人ほど、心のなかで自分を追い詰めている人も多いのではないだろうか。(私は全然違う)友人を見ていてそう感じる。人や相手にイライラしたりするのは自分には休息が必要だっていうアピール。雑なぶんだけ自分にも雑になる。人にも雑になる。

 

異常に親子関係が悪い人にグッときてしまうのはなぜだろう。インドに来てきっと何か変わったことは沢山あるのだと受けど、それが何かは今はわからない。人々に対する理解をどこまで深くできるのだろうか。この人もこの人なりの悩みがあるのだ、と思うと余計コミュニュケーションに躊躇してしまう。

 

この日記をIiba;cafeにて書いている。周辺にはチャイ屋が所狭しと並ぶ。今日は朝5時に起きて川に朝日を見に行くつもりだったけど、お寝坊をして5:45に起きた(はなちゃんに起こされた)今の所日本にいる時よりリラックスできているみたいだ。骨の髄まで溶けている気がする。日本に帰って余計な力が入らないといい。日本にいると自分の家に近づくにつれて力が入ってしまう気がする。日常のほとんどがどうでも良いことばかりなのに。インドにいると、あれもこれもどうでもいいってなる。日本語も言語も喋りたくない時がある。このカフェのスタッフはみんなとても良い顔つきをしている。誇りを持って働いている顔をしていて、とても気持ちがいい。すごいことだ。

1st March ②

バラナシの雰囲気がすごい。今まで行ったどの街よりも隣の人と友達になれるような空気感がある。全員人間として淘汰されている感じ。旅行者もインド人も入り味って生活している街だと思う。最初の第一印象は芳しくなかったけど、この水のように流される空気感は不思議と不快じゃない。今日ナントカゲートでお祈りを見たけど、ただのエンターテインメントと化していた。実はみんな生活しててもやることないから祈りという遊びを生み出して、ちょうどそれが宗教を伝播する目的と一致したからやってるという感じに見えた。

1st March

夜、インドのバラナシ空港に降り立って空港の外に出た時、凄いとこに来たと思った。溢れるタクシー運転手、ひと、ひと、ひと…。その人混みをすり抜けて、足早なタクシー運転手に必死でついてった。前から容赦無くやってくる車を避けようと、草むらに足を踏み入れた、ら、そこは沼だった。花ちゃんは無事。必死で足を引っこ抜いた。かろうじて足首くらいまでですんでてよかった。空港の前になぜ沼があるんだっていう怒りと、何が入ってるのかわからない沼にハマってしまった自分の情けなさに車内で正直とても凹んだ、、。インド人もはまってないのに…。沼…。更に、空港からホテルは1時間くらいで着くと言われていたのに、物凄い渋滞、、。車、全く進まない。。タクシーに乗ってるアジアンに道行くひとはめっちゃ振り返る、、笑。今までとはまた違うギラギラとしたインドの夜の街。ホテルに着いたのは夜の10時くらい。結局3時間かかった。最後の街で散々な旅の幕開けか…もうこの先数日間は何も期待出来ない…もうだめだ…というヘロヘロな気持ちで支配人にホテルの部屋まで案内してもらった。

 

 

 

部屋、ピンクだった。爆

入った途端笑いが止まらなかった。ここはインド??それともラ◯ホ?床も壁もまっピンクのプリプリなお部屋…。え?私この部屋予約してないんだけど???という困惑に、「とっていた部屋に予約が入って、こっちの部屋はデラックスルームだからオーナーさんがこのお部屋に変えました」という管理人ディーパックさん。。(ホテルのオーナーは日本人&インド人のご夫婦)鍵を見たらお部屋の名前はプリンセスルーム(ジャグジー付き)、、。そのお部屋のお陰で沈んだ気持ちも吹っ飛んだ。その後の数日間は、とても快適。インドでの旅を無事終えることができました。ピンク、馬鹿にしてたけど色の力って凄いのね。

 

(一見悪い、、って捉えがちな事は実は反対のことが起きる前兆なのかも、、。

理不尽な何かが起こる時は、実は想像できない程の面白い事や楽しい事が待ってると信じたい。)

 

31th, March バラナシへ向かう飛行機の中で

今日チャンティガールを去った。チャンティガールの街はコルビジェと他の建築家の尽力のお陰で、インドではなくヨーロッパの一部みたいだった。チャンディガールに着いた途端文明化したインドに困惑しながらも安心感を覚えた。コルカタやデリーと完全に違った整えられた景色である。混沌としたクラクションの鳴っていた都会の夜とは違って、ほぼ静かな街だったのでとても快適だった。

 

チャンディガールはGarden cityとして計画された街。真ピンクのブーゲンビリアや黄色い花が道路脇に咲き乱れていて、想像以上に美しい街並みだった。マンゴーの木も植わっていたし。現地の博物館によると、パキスタンからの莫大な難民の受け皿が必要になり、スラム化した街を新しく作り変える計画が持ち上がったらしい。都市が拡大される時は人口が爆発して街や環境がそれを許容できなくなる時。バルセロナもそうだけど、大規模な人々の暮らしを支える社会的環境、物理的環境が必要になる。人々の暮らしや生活、治安は悪化してしまう。人々がコミュニティを自ら形成する力や自立自存の力を持たないとき、政府の力が必要となる。強制的にとも言えるが、共存の形ではなく、人々は政府や権力に依存しなければならない。どちらの街も自治を保つために政府が作ったものだ。バルセロナはcivic prideがあるけど、チャンディガールはどうだろうか。他のインドの街よりもその概念が存在しうる可能性がある気がする。どちらの街も相対的な対象があるためそれぞれの自治を保っているように思える。バルセロナはスペインからの独立を熱望しているし、チャンディガールはパキスタンと接している場所だ。デザインの結果は凶か吉か分からないけれど、対立する物象がないと自分のことを自覚できないのと同じで街の平和を保つにも相反するものが必要のようだ。デザインされているという事実はどれだけ人間に安心感や喜びを与えられるのだろうか。

 

それにしてもインドじゃなさすぎた。安心してぼられちゃったし。インド人のこすさや嫌なところは教育のなさからくるのだとしたらどんな理由にせよ、国際人としてその結果を招いているのが自分だという自覚が大切だと思う。そうしないと一生インド人はこすいままだ。マザーテレサは自伝的本をあまり書き残してないようだけれど、それって自分が思ったことを書き留めて終わりではなくて、行動で自分がどういう人間か表現したかったらじゃなかろうか。(私が推測するのはおこがましいけれども)言葉でだったら人間いくらでも言いたいことは言えるけれど、体現することはなかなかできない。行動に起こすことがもっとも説得力が生まれる。しかし、そんな人間になることはとても難しい。

27th March 

タンマイのプロダクトデザイン学科へ。

(英語で書かれていたけど美しくないので日本語で書きます。)

想像していた学科とは違っていて驚く。彼の専攻は陶磁器それがプロダクトデザイン学科だった。彼の学科はシャンティニケタンではなくスリニケタンにあり、より伝統的な現地産業と村人のための職を残すための教育が施されている場所であった。そこで、現地の村人が実際にお土産にある美しいタペストリーや布や染織を行なっているのを見学させていただいた。デザインや完成度はもちろん日本の方が比べ物にならないくらい高いけど、やっぱそこで比較してはいけなくて、純粋な人間のモノ作りの欲求って美しいものなんだなと実感。彼らの物を生み出しているプロセスがとても美しかった。アートってただアーティストが生み出した結果じゃなくてプロセスも含まれているよね。

 

その後タゴールミュージアムを再訪問。建物の裏にhugeといって良いほどの庭が広がっていて、それには本当に驚いた。手入れはされていなかったけれども、当時使われていたであろう庭の美しい景色を想像するのは難くなかった。ちゃんと手入れがされていたら本当に村の観光資源になりそう。建物もどれもとても心地よさげでよろしかった。一つタゴールの大工さんが建てた工具家と読んでも良い家があって、多分そこでカサハラさんとか色んな職人の方が作業していたんだろうけれども、家の機能がそのまま工具箱(柱が延長して収納になっていたり)になっていてかなり興奮した。展示物には日本から齎されたであろう物がちらほらあった。タゴールの興味関心は多岐に渡っていたということがよく分かった。どの建物も全て補修中だったりして全部完璧に見ることができなかったのは残念だけれども、最終的にシャンティニケタンに長期滞在した選択が間違ってなかったことにホッと一息をつけた。

26th, March 雑記

タンマイがピアスなんでしてないのインディアンぽくて良かったのに〜と褒めてくれた。今日のMVPはタンマイ。ありがとうタンマイ。でも痛くてできないよタンマイ。

 

はなちゃんと狭く汚らしいホステルの部屋で横たわりながらたくさんお話した。

奈良でのWSの話を聞いて、障害者が一緒にご飯を食べている風景がある世界が未来だといい、という話を聞いて彼女の性格の良さをものすごく感じた。純粋で素敵な子だと思った。そんな子と友達になれて幸せだと思ったし一緒にインドに来られて良かったと思う。なぜこの大学に入ったのかという議題が突然持ち上がって、そんな理由インドの衝撃ですっかり忘れていたのでその瞬間は突然過去に立ち返った。昔を思い出して悲しくなった。自分があの頃辛かったのか、と認識できた時の心ってとても苦しいんだね。

自覚もなく一生懸命毎日生きていたけど、辛いとか感じていたのかもはや思い出せないし、自分があの頃辛いという感覚を分かっていたのかも分からない。でもあの時の経験がなければ今の原動力になっていなかったなと再認識できた。私の祖母の話題になり、もう会えないのか、と思ってセンチメンタルになり泣きかける。

 

Iphoneがないからか、気心の知れた友人と一緒にいて素が出ているのか分からないが日本にいる時よりも自分の感情が豊かなことに気づく。

Visbaの学生達に将来的に会えないことに物凄く寂しさを感じる。彼らは自由で、好きなことを純粋にやっていて人間的に完成していて爽やかで、とても素敵な人たちだった(少し盛っているか)彼らがインドの未来を作っていって欲しいと思うし、自分もあれだけ魅力的な人間になりたいと心から思った。彼らからもらった優しさや思いやりや親しみをこれからどうやって返していったらいいんだろう。あったかい人たちに出会えて本当に良かったしとても感謝している。インドもシャンティニケタンも関わってくれた沢山の人もありがとう。